阿部公房著 『飛ぶ男』

 マロクンとのこれまでのことを考えたが、いちばん心苦しいのは彼を一生鎖につないで育てたことだ。 現在の法律では犬を繋いで飼うことを義務づけられているので致しかたないのだが、オフが小学生の頃には飼い主にそのような義務はなく、つないで飼うか、放しがいで飼うかは、飼い主の判断に任せられていた。 いまだにアジアの各地ではそうだろうが、大型犬やうるさい犬以外日本でも比較的おとなしい犬などは繋がずに放飼いにしていた。 そんな訳で自然に犬同士がかかって殖えるので、その頃はまだ路上には野犬などもいて、時々保険所から犬殺しと呼ばれていた人が来て、野犬狩りをして捕まえて行ったりしていた。 首輪をしている飼い犬も捕獲されることもあったが、そんな場合は後で事情を言って保険所に貰い受けに行ったりしていた。
 たしかに昭和40年以降田舎でも車は急激に増えたし、狂犬病とか、幼児が咬まれたりするアクシデントのことを考えれば、繋いで飼うことはいたしかたない時代の流れであることは分る。
 それでもオフなどは子供の頃人と犬が同居していた時代のあのおおらかな雰囲気を知っているので、鎖で繋いで飼ったことになんとなく後ろめたさを感じてしまう。 かといって犬を家の中で飼うことは馴染めない、オフはそんな感覚を持つ最後の世代の一人なのかもしれない。

 マロクンは今朝から何も食べていないし、確認はしていないが水も少し飲んだかどうか分らない。  
 たぶん少しは飲んだのだろう、お昼前に一度小便はした。 犬は本能に従って生きているので、食べない時はどれだけお腹が減って、痩せ細っても食べない。 人間のように、そんなことでは身体が持たない、などと考えて食べたくないのに無理してでも食べるというような行動は決してとらない。
 昔、放飼いにしていた頃は、死に際は自分で何処かに隠れて死ぬ、ということがごく普通にあったと言われている。 犬や猫は死期を悟るというのも本能の一つだったのだろう。
 マロクンはこのままジッとしていて回復するか、このまま死ぬか、その瀬戸際のところに自分がいて、回復してくれば食べはじめるだろうし、そうでない場合は衰弱して死ぬだろう・・・その内部の結果を待っている感じがする。 痛がったり、苦しがっていないのが、ただ見ているものとしてはせめてもの救いである。


 阿部公房著の『飛ぶ男』を読んだ。
 阿部公房を読むのは今回が始めてである。 この『飛ぶ男』は阿部公房の最後の作品、つまり遺作であるので当然作品は未完である。 その辺は知らなかったので初めて読む本が最後の作品だった。
 本にはもうひとつの作品「さまざまな父」という短い作品も収められている。 こちらは完成した作品で『飛ぶ男』の話と関連があり、その前段階の話、つまりある男が飛ぶに至るだろう・・・と思わせるところまでの話で、まさにある男(息子)が飛ぶところで終わっている。
 そして『飛ぶ男』は、いきなり男が飛んでいる場面から始まっている。
 
 ここで阿部が書いている<飛ぶ>ということはどのようなメタファーをもとにしているのであろうか?
 それがじつはよく分らない・・・しかし以下のような記述がある

 ≫あれ以来ぼくは父の裏切りを許していない。
 あの裏切りを思い出すたびに、ぼくは狭い出窓のガラスとカーテンの間にじっと身をひそめることにしている。やがて巨大な怪鳥になって飛び立ち、超低空飛行で住宅街の屋根すれすれに飛翔しながら通行人を次々に殺してまわるのだ。べつに血まみれの阿鼻叫喚を望んでいるわけではなく、むしろ死にたえた無人の街にたいする嗜好らしい。孤独な独裁者の願望に似ているかな。結局、抽象的なゲーム感覚に近いものだろう。次第に無人地帯がひろがっていく。何処かに潜んでいるはずの誰か(たぶん少女のフライデー)と出会うまで、ぼくは際限のない殺戮にひたるのだ。やがて完全な無人の静寂。つづいて螺旋状の眠りへ墜落を開始する。≪

 二つの作品に登場する若い男は同一人物かどうかは分らないが、ともに父への根深い不信を持つて描かれている。 これらの事実から二作品は父と息子の確執を背後のテーマとして持つ物語であると考えてよいだろうと思う。
 戦後を代表する知識人作家として、大江健三郎と阿部公房が並んで紹介されていた時期があったが、阿部公房の作品はこれまで難しそうな作品という先入観があって、なんとなく避けてきたが、今回の未完の作品を読んでオフの資質がかなり近いというか、ウマが合いそうな面があることを知った。