デジカメ、団塊世代を総括する?

 ついにデジカメを買った。 ニコン社製で三万円を少し切った値段で、それにメモリーチップを入れて合計四万円ちょいだった。 友人に聞くと、どうせ買うなら四万円ぐらいのモノを買っておいたほうが良いよ、というアドバイスだったのでこれは手頃かなと思っている。 これから古民家をリフォームしていくわけだが、使用前、使用後ではないが、仕事の後先をカメラで記録していこうと考えているので、いわばこれから必需品である。

 オフがカメラを買うのはこれが生まれて初めてである。 使い捨てカメラなら何度か買ったことはあるが、本格的なものは今回が初めてである。 昔、中学生ぐらいだったろうか、むしょうにカメラが欲しくなったことがあって、無理だろうなぁと思いながら買って欲しいとねだったことがあった。 自分としては負担をかけず出来るだけ安い製品を買うつもりでいたが、もちろん答えはそんな贅沢なものダメ!の一言だった。 その時やむなくカメラは諦めたのだが、もう一生カメラなんか持たなくてもよい、などと極端な諦めかたをしてしまった。 以来今回まで一度もカメラは買わないで来たわけだ。

 インドを一人旅した時は、借りたカメラをバックパックに詰めていったが、ほとんど使わなかった。
 時々撮りたいと思うのだが、普段使い慣れていないのでどう撮ればよいか分らないのだ。 もっと具体的に言えば、撮りたいと思うのはたいてい子供や大人の人、つまり人間で、その見ず知らずの人間にカメラを向けることがどうしてもできなかった。 結局写して来たのは、南国の木々とか、つまらない風景を少々写してきただけだった。

 
 三浦展著の『団塊の世代を総括する』を読んだ。
 これは小説ではない。 オフが小説ではない本を読むのは珍しいが、団塊という語に出会うとついその内容が気になってしまう。 以前やはり堺屋太一著の団塊の世代向けの本『わがままのすすめ』を読んで、少々ガッカリしたが、今回はさらにガッカリした。
 作者は団塊の世代から10年ほど遅れて生まれてきた、いわゆるマスコミなどで<しらけ世代>と呼ばれている世代である。 だいたい自分達より少し上の世代の特に元気のよい連中というのは、どことなく鬱陶しいものであるが上に、団塊の世代はやたら人数が多いと来ているから、始終頭を押さえつけられているような重苦しい圧迫感があるのだと思う。 話は外れるが、また男女を問わず自分達より下の世代の可愛い系とかモテモテ系もどこか小憎らしいものではあるが・・・

 この本の論点の中心はどちらかといえば団塊の世代の子育て論についてである。
 簡単に言ってしまえば、団塊の世代の親たちは働くことの意義や意味を子供たちに教えなかった、と言っているのである。 その結果、
 ≫団塊の世代の子供にはフリーターになったものが多い。フリーター400万人時代の主役は、団塊の世代の息子や娘たちなのである≪
 と結論付けている。
 たしかに現在30歳から35歳までの若者が団塊ジュニアと呼ばれる層である。 しかしこの世代が世にでる頃にバブルが崩壊したのである。 ただでさえ多い層なのに就職の門戸が狭めれれば、当然行き場がなく、あえなくフリーターを選んだ層である。 この後の現在25歳から30歳の世代は就職氷河期と呼ばれた層なのだが、じょじょに総数が減ってきているのでその前の団塊ジュニア層よりフリーターの数は減ってきている。
 ということは経済的な要因でフリーターはある時期やたら増えたのが主因である。 この作者も経済的な要因は認めているが、主張の柱は子育て失敗論である。団塊の世代が自分の世代だからといって弁護するつもりはないが、団塊のジュニアにフリーターが多いのをどんな生き方が良いか示せなかった団塊の世代の子育ての失敗が主因として導くのはあまりにも恣意的な結論であり、的外れである。
 しかし、団塊の世代に定年後、のんびりと老後を過ごすのではなく、それまでの職種を生かして会社を興し、そこへ若者フリーター層を雇用して吸収せよと主張するのは、それもありか程度の話だが、たしかに悪い方向ではないだろうと思う。