夏の一日

 暑い天気の中、二、三日前から、ヒグラシが鳴き始めた。
 最初の日は一匹だけだったが、昨日あたりから数匹が呼応して鳴き始めた。
 でも数としてはまだまだである。 もう少しすると早朝と夕方、カナカナカナ〜と何十匹と唱和して鳴く迫力はものすごいものがある。

 午前中母親に頼まれて、日除けに外に張ってあった簾を取替えに行く。
 外してみるとまだ何ともない。 編んである糸もしっかりしているし、ただ表側が少し日に焼けて黒っぽくなっているだけである。 母親はそれを見てくれが悪いがぁという。
 当たり前のことだがモノというのは時間とともに古びるものである。 それを汚いと思ったり、見てくれが悪いと思ったりするか、はたまた味が出たと見るかは、その人のモノの見方であろう。
 古くなった障子紙は日に焼けて赤くなる。 たとえば和紙は新しいときは白くて、それはそれでたしかに美しいと思う。
 が日に焼けて赤くなった和紙はそれもまた良い味を出しているものである。
 最近はそのようにモノを見る、あるいは見れる人が少なくなったような気がする。まあ、工業製品が幅を利かせている時代だからそれもそうなのだが・・・
 少しへそ曲がりな兼好法師なら、ものは新しきものばかりをめずるべきかな…などと言いそうであるが・・・

 お昼を食べてひと眠りをすると少し風が出ていた。 
 庭に出て芝刈りをする。
 最近は月に二、三度芝を刈っているので、準備も入れて小一時間ほどで終わる。 また頻繁に刈っているので一部の草が少し黄色くなって来ている。 全体の四分の一ほどしか生えていなくなった芝が早く回復して、その繁殖面積を少しでも広めてほしいものだ。
 そう思って芝刈りをしていると、それなりに楽しいものである。 

 これまで刈った草は桐の木の下に捨てていた。 そのせいかどうか分らないが、この桐の木はいつの間にか勝手に生えてきた木なのだが、十年余りの間にずいぶん太く育って、我が家の木々の中では一番背が高い木になってしまった。 これからは刈った草は桂の木の根元に捨てることにした。 桂の木はその葉の繁りがなんとなく柔らかく、今日のように暑い日にその木陰に行くと、いかにも緑陰という表現がぴったりという感じがする。好きな木のひとつである。
 その後プラムの実を採った。 プラムとは和名のスモモのことであるが、なんとなく中途半端な味である。 もう少しすっぱいか、甘いかになれば、それなりにインパクトがある味になるのにと思うのだが・・・そんな訳でこれまでは生食しないで、すべて焼酎に漬け込んで果実酒にしていた。
 しかし神戸の陽子さんが好きだというので採って送ることにした。 今年は収穫しなかったので、カラスやヒヨドリなど鳥たちが次から次飛んで来て争いながら啄ばんでいる。 熟しかけたものは触れるとすぐ落ちてしまう。おかげで木下は足の踏み場もないほどたくさんの実が落ちている。