『空を駆けるジェーン』

 暑い、久しぶりに富山市の最高気温が30度を超えた。
 午前中、豆畑の草かきをした。
 レーキーでもって表面の土を掻いて同時に雑草も掻きとって行く。
 日差しの中の仕事なので汗をびっしょりかいた。 黒豆畑もと思ったが、こちらは少し涼しくなる夕方にまわした。 午後からは先日玄関に伏せた御影石がどうも座りが悪いし、マロ君の鎖が石の角に引っかかったりするので、再び石を起こしてして、下の土をならしもう一度伏せ直す。
 
 どうも今年の梅雨は空梅雨気味である。 5月は比較的雨が多かったが、6月は梅雨に入った割には少なかった。 裏の水路の水も今年は少なめである。 
 それに解禁になった鮎釣りがさっぱりダメらしい。山の家へ来る途中庄川の橋を渡ってくるのだが、今年は鮎釣りをしている人が極端に少ない。 一昨年は橋の上からも釣り人の姿はいつも見られたが、昨年から急に少なくなった。 鮎が育っていないという声や、琵琶湖産の放流事業を批判する声も聞こえて来る。 なによりも囮を追いかける天然鮎の溯上が少ないものだから、友釣りファンからの不満が多い。このようなことになるのは数年前から釣りファンから指摘されていたことだが、既得権にあぐらをかいてナアナアとやってきて、何のた施策もとらなかった漁協の責は重い。そんな連中ほどダム工事などで漁業権が問題にされるとワアワアと少しでも多くの保障を取ろうとして既得権を振りかざして騒ぎ出す。本当の意味で川、魚すなわち環境の悪化を憂えていない。人々は忘れているかもしれないが、我々は川の水を飲んで生きているのだ。汚れた水の浄化は行政や科学者が何とかしてくれているのだろうぐらいの感覚では、いずれ我々のこの先も命も危ない。
 いっそ、期限を切って川の水を浄化しないで飲む法律でも作ったほうがすべての問題解決にはよいかもしれない、と思ったりする。 
 
 アーシュラ・K・ル=グウィン著の『空を駆けるジェーン』を読む。
 この作品は「空飛び猫物語」の中の第四作目である。 少年少女向けの作品である。 図書館で訳者が村上春樹とあったので目に留まって借りてきた。
 ゆっくり読んでも30分もかからないで読めてしまうが、挿絵などを仔細に見ながら読んで行けば、暑いこの時期の読書とし手は結構楽しめる。

 田舎の納屋でゴロゴロしているのに退屈した黒猫のジェーンが、面白いことを求めて都会へ飛んで行き、そこである男の部屋へ飛び込む、その男は珍しい羽を持った猫を見て、いいこと思いついたと言い出し、ジェーンに勝手にミス・ミステリアスと名付け、マスコミの注目を浴びて一儲けを企む。 しかし猫はその<いいこと>の退屈さに飽きてしまい、逃げ出して母親の猫が買われている家で自由を得る。とまあこんな話である。 寓意をこの中から読み出そうとすれば出来るだろうが、子供が読むならそのまま読んでそれで、ああ面白かった、で終わってそれで十分良いような気がする。