恥ずかしながら・・・

 家の前の道端にアヤメが三本が咲いた。 昨夜の雨で開いたのだろう。
 青紫色の花を付け、すっくと真っ直ぐ立つその姿は、まさに貴婦人の立ち姿を思わせる。
 昨日の雷や夜の雨は、上空の寒気のなせるワザだったのだろう。 今日は朝から少々肌寒いが、それでもマロクンと散歩の途中、薄日が差してくると長袖では少し暑く感じる。
 

 先日、昔といっても学生時代付き合っていた彼女から本が送られてきた。 
 正確には送り返されて来たのだが・・・本来はオフの本らしいのだが、何かの時に彼女に手渡したものらしい。 最近昔のものを整理していたら出てきたらしいが、私が持っているよりも送り返した方が良いかな、と思ったから送り返したのよ、と電話で聞かされた。

 そこに昔オフが書いた詩が載っている。 おかしな話だが、そのことすらずっと知らなかった。

 数年か前に当時の友人から、あの本にはお前の詩が載っていたんだよ、と聞かされた。
 ええっ!と驚いた。 まったく覚えていないからだ。
 詩を書いたことも覚えていないし、そんなところに載せたというのも知らなかった。
 その時、誰がなぜそれを断わりもなく載せたか、その経緯もその時聞かされた。 そういう経緯があったのか・・・となんとなく納得した。

 しかし、そんなことは別にして、今読んでみると、当時思っていた個人的なことなどもあり、ところどころ自分が書いたなぁ思える箇所もある。
 ところどころ、というところがなんとも情けないのだが・・・
 それよりも何よりも、自分の気負いと幼稚さが恥ずかしい。
 まあ、それは、致し方のないことなのだが・・・ 



  <アノトキオマエハ
  コトバトイウ コトバヲ
  ウシナッタニモカカワラズ
  イマサラ ナニヲ
  カタラントスルノカ・・・>

 言葉という言葉のコミュニケーションが
 かぎりなくデスコミミュケーションに
 風化するこの砂礫地方の帯の中
 存在の立脚する机と椅子で
 何よりもまずバリケードを演じ 
 対他化され 先取りされた イマジネールの僕自身の存在そのものを 
 スクリーンに カンバスに 原稿に誕生する創作作業でもって
 政治現実に向かって語り始めた
 十年前 夜鷹の参の星 死と突然輝き
 さらなる夜への予言者の予言は
 呪縛のように拠点への照準を現在に定めよ
 砂礫の中 足音は 重い拒絶<否> 単調の連なり 峻絶なる黒い行為の渇きから
 内なる情念のオアシスへ羞恥で泉を掘る存在と運動の引き裂かれた<被害者>
 独身者の蒼ざめた清純なるヘンズリの定期日常と完全に訣別せよ
 喫茶店で珈琲に砂糖二杯の恋人をゲバれ 
 泣くなよい子だねんねしなのかあちゃんをゲバれ
 外なる近代 内なる封建 中和されたアカディミズム教師をゲバれ 
 彼と我の全体への <否> で 日常を切る
 この「やさしさ」の中 峻然と今蘇生せよ
 永続の学生への門を自らの手で押し開け
 <被害>と<加害>が内なる青いまっさおなオアシスの中<羞恥>を仲人にして 結婚する
 国家の幻の外 おおくの自由を体現する投企者の この不安と喜びそのものは
 世界との恋愛関係そのものではないか!
 演ぜられたバリケードは 今 硬さ 確かさ 実感そのものの現実のバリケード それは僕だ
 僕はバリケード
 とぶな とび立つな 飛翔するな
 立脚にまず立て ここにまず立て 永続に向けてまず立て その限りに
 どこへでも いつでも飛び立てる
 さらなる夜への自立した生の参の星は 
 今 ここに輝いている言葉だ