『象の消滅』

 朝のうち晴れていたが、10時を過ぎるぐらいから遠くで雷が鳴りだした。
 意外と早く雨が来るなと思ったので、急いでマロクンを連れて散歩に出た。 案の定途中から雨が落ちてきた。 早足で戻ったのだが、山の家に着いたその時、ドドン、ピシャン!と近くに雷が落ちた。 その直後から雨がやや激しくなるが、長くは続かず、数分後あっけなく上がってしまう。

 土間のツバメの巣に雛が生まれ、親鳥が餌を運んでくるたびにピーピーと可愛い声で鳴いている。
 オスもメスも休む暇なく入れ替わり餌を運んでいる。 今年の春は親鳥が一組しか来なかった。 ここのところ毎年子育てには成功しているので、毎年親鳥の飛来数は多かった。 昨年などは同時に三組が巣をかけていたというのに・・・今年の冬、スマトラ沖で地震津波があったが、遠い南国での災害の影響がツバメ達にもあったのだろうか? 

 
 村上春樹著の『象の消滅』を読んだ。 これはニューヨークで出版された村上の初期の短編17編を同じ作品構成で新潮社が日本でも出版したものである。
 これまで彼の初期の作品はあまり読んでいなかった。 中には以前に一度読んだ作品もあったが、どちらかといえば今回初めて読むという作品が多かった。

 何というか、まずの印象は、世界というか、日々自分の身の回りに起りうる事々を見つめれば見つめるほど、すべてのいろいろなことごとは説明のつかないような偶然の連続、積み重なりである。 
 それが分るとか、理解できるとかいうのは、つまり何らかの必然として説明がつくというのは、それまでの経験則や常識や因縁や宗教、あるいはイデオロギーや学問や科学、歴史学や心理学、社会学、物理学などなどの力を無意識のうちに借りて自分に説明して、そのように自分で納得し受け取っているわけである。 つまり物語の中で世界を理解し、語っているわけである。
 しかし、ある日突然、飼っていた猫がいなくなって戻ってこない時・・・われわれはその事実に対して何らかの解釈とか納得できる説明を試みることが出来るであろうか? 猫に恋人が出来たとか、前世からの決められていた因縁があったとか、金星と彗星の巡り合せでそうなったとか、共産主義者マルクスを引き合いに出して猫が消えたことを見事に解釈、説明するかもしれない。 しかしその解釈とか説明が本当のそうなのかということは誰も言えないはずである。  まあ、ことが身近な猫ならまだしもいろんな解釈がつくだろう。 では、ある日突然いなくなったのは猫ではなく檻の中の象だった場合はどうなんだろうか?
 あるいは、附き合っていた女の子が突然の心変わりした?
 結婚したての妻がお腹が空いたので、深夜に猟銃を持ってマクドナルドを襲撃しよう言い出したら?  
 男が故もなく納屋に火をつけまわることを告白したとしたら・・・
 われわれは説明つかないこの世を、説明にならない説明をナビゲーターとして、今を生きているのだけなのかもしれない。 まさに世界は謎に満ちている、初期の村上の作品はそのことを訴えながら、やれやれ、とつぶやきそれなりに手探りできる範囲の自分と等身大の範囲で、自分と等身大の誠実さで、今を生きている人を、ドリンクを飲みながら、音楽を聴きながら、サンドイッチを食べながら、そこにいる主人公を淡々と描いていく。
 個々の作品については、まだまだ細かく言いたいこともあるのだが・・・日記だし・・・まずは大まかな感想は以上のようなところである。