『森を見る東洋人 木を見る西洋人』

 昨夜マロ君を引き取りに行った後、生協や買い物した食材を持って山の家へ行く。
 天気が曇りだってせいもあるが、山の家は閉め切って出掛けた割には涼しい。
 しばらく留守居だったので、カマドウマや大型の蜘蛛が家の中を我がもの顔で闊歩している。
 これらの虫はいわゆる昆虫ではないが、夜の間部屋のあちこちに出没してそこらをウロウロしている小昆虫を狩って生きている。 出来れば飛ぶアブや蚊を狩ってくれればと思うが、ありがたくないような、ありがたいような小さな同居人達である。
 さすが山の家、涼しいこともあってよく眠った。

 『木を見る西洋人 森を見る東洋人(思考の違いはいかにして生まれるか)』著者リチャード・ニスベッドを読む。
  作者は社会心理学者で、人の心や思考のかたちが文化によっていかに異なっているか、またはその違いはなぜ生じるのかという問題を取り上げている。
 まず東洋人のものの見方や考え方は<包括的>であり、西洋人のそれは<分析的>であるという。 包括的思考というのは、人や物といった対象を認識し理解するに際して、その対象を取り巻く「場」全体に注意を払い、対象とさまざまな場の要素との関係を重要視する考え方であり、他方、分析的思考とは、なによりも対象そのものの属性に注意を向け、カテゴリーに分類することによって、対象を理解しようとする考え方である。
 東洋人は<森全体を見渡す>思考で、西洋人は一本一本の<木を見つめる>思考の様式をもっているということになる。
 たとえば水中の様子を描いたアニメーションをアメリカ人と日本人のだ大学生に見せたところ、アメリカ人はもっぱら大きくて目立つ魚に注目したのに対して、日本人はまず背景の環境全体に目を向けるところから観察を始めた。
 またアメリカ人と中国人の大学生に三つの単語(たとえばパンダ、サル、バナナ)を示して、このうちのどの二つが仲間であるかを尋ねたところ、アメリカ人はパンダとサルを選ぶ人が多いが、中国人はサルとバナナを選ぶ人が多かった。 中国人は「動物」という<カテゴリー>よりも、サルはバナナを食べる、という<関係>を重視したのである。

 日本、中国、韓国など東アジアの人々は、世界を複雑なものとみて包括的に思考し、ときには矛盾も容認する。これに対し、西洋人は分析的で、個別の対象に着目する。
 こうした対比を先入観で説くのではなく、心理学実験室で検証してみせたのが本書の特質である。
 そして、双方の思考法の長所が交じり合う世界になるよう、著者は期待を込めて結びとしている。
 これは以前からなんとなく感じていたことであり、あらかじめそうではないかと思っていたことだったが、あらためて比較した実験の数々とそに結果を並べられるとう〜んと唸らざるを得ない。
 西洋人がものごとをカテゴリーに分けて単純化し分析、整理しそれを演繹的に推論し、ひとつの論理を組み立て科学的思考を発達させて今日の近代化があるわけであるが、その思考法が今は行き詰まりを見せている。