『ぐるぐるまわるすべり台』

 まだ少しすっきりしない天気が続いている。 梅雨明けは目の前だろうが、太平洋の高気圧が前線を北へ押し上げ切れない。 連日33度から35度の気温に見舞われている地方のことを思えばありがたいことなのだが・・・
 午前中父親の命日ということで母親を連れて墓参りに行く。 午後からは芝刈りをする。頻繁に芝刈りをするので心なしか芝生の勢いが増してきたような気がする。 それでも全体の四分の一ぐらいだろうか。 周りの木々が大きくなったので日陰になる部分も多く、以前のように全部芝ということにならないだろうが、せめて半分ほどまで広がって欲しい。
 夕方は山の家へ戻り、家の周りの草刈をする。 まだ青い袋を抱えているホオズキや青ジソは残して・・・汗だくになってぬるいお湯を張った五右衛門風呂に浸かりながら、外で夕闇のせまる木立ちの中でカナカナと鳴いているヒグラシを聴く・・・夏だなぁと思いながらひと時のなごみの時を過ごす。

 神戸に行っている間、中村航の『ぐるぐるまわるすべり台』を読んだ。
  中村航は初めて読む作家であるが、私立の理系の大学を出て、しばらく民間会社でシステムエンジニアとして働いた後、作家スタートした人である。 
 さすがに文章もストーリィの組み方などもキッチリとしている。 ところが最後のほうで主人公というか語り手が突然入れ替わるような不思議な場面が仕掛けられている。 それが何とも不思議な効果を残して物語は終わるのだが、考えてみれば主人公は大学に退学届けを出して、塾の講師として生活を始めたのだが、同時に携帯サイトで音楽に関してひと癖ありそうなメンバーを集めバンドを結成しようともしている。 また彼は塾の講師としては不登校の生徒の個人指導を引き受け、かなり親身になり熱心に指導している。 一方バンドの方は立ち上がる直前で主人公が身を引くことで、なんとか始まり動き始めるのだが、主人公だけは取り残されたように振り出しに戻ってしまい、再び自分が拠って立つ場所が曖昧になってしまう。 何というかモラトリアムを繰り返す今の若者をなぞるのが作者の狙いなのか、確かなことは分らないまま物語りは終了する。 
 解からないまま少し考えてみたが、物語の枠組みそのものに、つまり中身ではなく物語の構造、システムにこの作者の訴えるテーマを打ち出そうとしているのだろうか・・・いずれにしろ何か新しいものをかかえての新しい書き手の登場である。

 YOMIURIBOOKSTAND/書評で川村次郎が以下のように評している。
≪ 大学をやめて塾の講師をしている青年が、面倒な生徒を熱心に指導する一方、携帯サイトでメンバーを集め、バンドを結成しようと計画する。計画が実現する直前、彼は突然身を引き、自分抜きで始まるであろう音楽を、はるか遠くに思い描く。
たとえば数式のような厳密正確なものの美に感応する資質が彼にはあり、音楽にひかれるのも、音の完全な調和を求めてのことらしい。しかし厳密性を徹底して追究すれば、底知れぬ深みに落ちこむ危険がある。完璧(かんぺき)への志向が、無限に続くらせんの、きりのない上昇下降の反復運動を呼び出してしまう。ビートルズのある過激な曲を中心にして展開される物語は、生のそうした危うさと、危うさの一瞬に出現する超絶的な輝きへの希求を、奇妙に透明な文章で淡々と描いている。もう一篇の「月に吠える」も相似の趣向で、工場の工程システムの効率化への熱中と、音楽への熱中を重ね合わせて仕立てている≫
 しかしなぁ<生のそうした危うさと、危うさの一瞬に出現する超絶的な輝きへの希求>と言われても、なんだか???よく解からないのだが・・・