『滴り落ちる時計たちの波紋』

 暑い。午前中は少し風が出たので過ごし良かったが、午後からはそのこころ尽くしの風も止み、空気が熱い。 夕方五時過ぎ、軽い夕立がありそれ以降は過ごしやすくなる。マロ君との散歩の途中の久しぶりに大きな月みれたなぁ。

 平野啓一郎の 『滴り落ちる時計たちの波紋』 を読んだのだが、いったい何を書けばよいのか、正直途惑っている。 
 今流行のスリラー風のストーリィなど何もない、堂々巡りをしているような自己述懐だけで綴られたこの(正統派)小説を、この暑さの中で読みながら何度もうたた寝してしまった。

 <実験的手法によって「いま」という時代の多様性に対峙(たいじ)しようとした9編を集めた>とあるが、『最後の変身』は唯一横書きの小説だが、これは中篇といっていいだろう。 そして問題はこの作品である。
 これはカフカの有名な『変身』を意識して書かれている。 今風の20代の営業マンがカフカの『変身』を読んだのをきっかけに突然会社に行かなくなり、とうとう仕事をやめてしまい、自室に引きこもってインターネットを唯一の外界との接点にして暮ら始める。 そして彼は自分のホームページに文章を書きはじめるのだが、これはいわば彼の遺書として書かれており、それがこの小説という体を取っている。
 それはカフカの『変身』の彼なりの解釈であり批評であったり、親の仕事の関係で転校を繰り返してきた彼のこれまでの自分史であったり、つまりどこの学校でも起こっていた、いけにえ祭上げるいじめへの加担することでしか生き抜けない過去であり、また、自己嫌悪を伴う青春期特有の強烈な自尊心の分析だったり、ネット依存し、情報のアリ地獄ともいえる状態から這い出ることがない自己であるなどなどが、次から次へと書き並べられる。 
 そしてこれまでへらへらと終始何者でもない自分を演じたきた自分がその仮面を脱が捨てる、つまり<変身>することで本来の自分をさらしてみると、その見るに耐えない自分の姿、肥大化した自己意識の泥沼に嵌まった醜い自己がいて、そのあまりにも偽悪な自分の姿を曝すことは出来ず永遠に引きこもったまま自死するしか出口はない。 しかし彼がネット空間にばら撒いた彼の破片、肥大化した自我の虫達は、いわば言葉と思念の虫達は、光ファイバーの中を駆け巡りその偽悪さと汚辱を全世界に撒き散らすーーそんな幻想のまま物語は終了するのである。
 カフカボルヘスを意識している自ら書いているが、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』も十分意識されていると思える。

 また、いろいろ実験的な手法が取り入れられていて、たとえば短編 『閉じ込められた少年』 は普通に前から読んでもよいが、何と!後ろからも読めるように書かれていたりする。

 彼は自分のサイトでこの作品について以下のようなコメントを書いている。
 ≪僕は、小説を書くときには、それがいわゆる「文学史」というものに於いて、どういう位置を取ることが出来るか、ということを常に念頭に置きつつ、また一方で、僕自身の過去の、そして同時に未来の創作に於いてどういう位置づけになるか、ということを考えます。
 今回の作品集は、『日蝕』以降、僕の作品に対して、様々な感想をお持ちであろう読者のみなさんに、僕の現在の位置をはっきりと示すものになると思います。それは、僕の足跡を一本の太い線として改めて描き直すとともに、僕の進むべき前方を広く照射するものであるはずです≫
 なんというか自分の作品に対してのものすごい自信である。 それだけの仕事をしているという自負があるのだろうが、たしかに書く力量に関しては文句のつけようがない、それは認める。 
 しかし、現代をその自意識の、あるいは自我の観念的な垂直な掘り下げだけで物語っても、出てくるものは19世紀の小説以上のものが果たして出て来るだろうか、それは自意識に現代的な衣装を身に纏わせるだけの作業に終わってしまうような気がするのであるが・・・

 さて、彼は来年30歳になるが、30代の前半に、現代日本を舞台にした長編小説を二つ書きたいと構想しているとも言っている。 それは三島由紀夫が『金閣寺』や『鏡子の家』を、大江健三郎が『万延元年のフットボール』を三十代前半で書いて、その後の創作へ決定的な意味を持つ仕事をしたが、その事を強く意識しているからだと言い切っている。
 平野啓一郎が名実とも本物かどうかの評価は、次作を楽しみに待ってからにしたい。