『ニシノユキヒコの恋と冒険』

 今日も暑い。土間ではツバメの雛が親鳥の運ぶ餌が来るたびチチチーと争うように鳴いている。
 今日から8月、明日よりまた神戸へしばらく行くのでこの日記もお休みをする。
 向こうでもPCで日々のことを書いて送ることも出来るのだが、向こうではなんとなくそんな気にはならない。
 
 『ニシノユキヒコの恋と冒険』 川上弘美著を読む。
 なんというか最近の川上弘美は、『溺レる』を書いたあたりからひとつの壁みたいなものをなんなく突き抜けて、ある地平に達したと思ったとたん、ただただひたすらにひた走っていく。
 はたしてどこへ行こうとしているのか・・・われわれはその姿を見失うまいと、ただ後を追いかけていくだけなのあるが・・・

 この作品も読み終わるのを惜しむようにゆるゆると読んだ。 途中で何度も何度もため息をつきながらだが・・・何がそんなに良いんだ、といわれても答えようがない気がする。
 少し大げさだがあえて言うなら、行間から漂ってくる男と女の決して交わることのない思いの行き違い、それはひいては生きることの淋しさに繋がるようなもの・・・確たるものではなくて、ふわふわとした雲のように、その正体の水蒸気のように、今そこにあったと思ったら、もう消えてしまっているようなものを、つかもうとして、なんどつかもうとしても、つかみそこなうことの連続なようなものを求めて・・・とでも言おうか・・・。

 しかし、あわあわと書きつづりながら、恋とか、愛と呼ばれているとらえどころのないあやふやなものの正体を、彼女はいつの間にかものの見事に刺し貫いているのである。

 男がその資質に正直に、いわばとらえどころのない愛とか恋を求めて生きる時、女のまわりをただただふわふわと漂うように生きて行くようななものでしかない・・・
 そして相手と近づき時を過ごしながら・・・キスをしながら・・・セックスをしながら・・・どこか定まらないおのれの存在をもてあましながら・・・空ろで曖昧な視線を虚空に泳がせながら・・・何度もあきもせずいろんな女と交わりながら・・・また行き着くことのないかずかずの女の影のようなものを求めつづけながら・・・いつもそのからだの背後に数々の違う女の影やにおいを漂わせながら・・・
 しかし、言ってみれば過ぎていった男は最後は女にとって、あやふやな影のようなもの、空虚なもの、空っぽなもの・・・でしかない、いつも男はそのような虚ろなものでしかないのだが・・・それは、何故なんだろうか・・・

 この小説は結局ニシノユキヒコと交情のあった十人あまりの女達の物語である。

 男にとって愛とか恋とは、夏美やマナミやタマやのぞみなどと名前のある女との個別的なひとつひとつの出逢いや、情を交わすことや、肉体の交わり、ではなくーーー女とのそのような交わりの総体のようなものが、ようやくその男にとって恋とか、愛と呼べるような程度のものであり、それはどこまでも曖昧で、あやふやなものでしかない。  そこが決定的に女とのちがいである。女達はそれぞれニシノユキヒコと個別に恋愛をするが、ニシノユキヒコは総体としての恋愛のなかに個別の名前を持った、夏美やタマやのぞみや例がいたとでも言おうか・・・
 そのことを近代日本文学の数ある女性作家の中で初めて看破し、当作品でさらりと提出したのは川上弘美が初めてではないだろうかと思われる。 またそのことを今作を読んで初めて教えられ、気が付いた。 まさに自分にとってもコロンブスの卵とも言える作品であったような気がする。