夏の南風

 昨夜半から南風が吹き出した。日本海へ抜けて勢力が弱まった台風が低気圧になり、北上してきているせいだろう。今日は日本海側はフェーン現象で暑くなりそうだ。でも最近の蒸し暑さはなくなるだろう。 今日の予想最高気温が37度となっているが、蒸し暑い35度より、乾いた37度の方が幾分かマシと思える今日この頃である。 このパソコンを置いている台はもと神棚の板を利用しているのだが、乾燥して反り返って、台に肘をつくたびにガタガタする。 それに今朝はいきなりお櫃の蓋のタガが外れていた。 まあそれだけ乾燥している証拠なのだろう。
 窓から見える向かいの山の木々が風にあおられてゴウゴウいっている。 そういえば7月に神戸へ行った朝も、暖かい南風のこのような日だったような気がする。

  ≪ 一度息を走らせたら、辛抱が破れて、喘ぎが止まらなくなると恐れていた。しかし細く揺らぐ平衡がどうにか落ち着いたかという時に限って、安堵の隙を窺っていたように、笑いにも似た喘ぎの衝動がゆっくり上げて来て、自分で自分を、剥離気味に眺めるうちに、制止の限界にかかり、手足までがひそかに、責任の分担を放棄して躁ぎ出す。砕けかける波の壁の、巻き込まれる間際の、透明に伸びきった碧(あお)を思った。それを堪(こら)えるだけ堪えて、長い息を抜く≫

 ≪そのつどその人のその言葉が思い出されたかどうか、覚えはないが、勤勉はかならず懈怠を後に引くものだ、あれこれ自他の例によって知らされたのは迂闊にももっと遅くて、四十代に入ってからだった。商売を興すまではくるくると働くが、いったん軌道に乗るとタガのはずれる人間がいて、生涯その繰り返しで終わる、と昔年寄りに聞かされた話に思い当たり、しかしもっぱら一身の欲望に掛かって押し上げて来た者にとっては、一応充足を見た後で持ち崩すのは、これも欲望の命ずるところで、そ
れに従うよりほかにないのではないか、成り代って弁護を試みかけたが、また考えてみれば、いまどきその類(て)の人間はおそらく存在しにくい、飽きるというところまで十年二十年、あるいは三十年しても、行き着くことは難い≫

 いきなりだが、以上の文章は任意に開いたページから適当に拾い出した文章だが、おそらく好きな人がこれを読めば、この文章の作者は、ああ、あの人だとすぐ分るのであろうが、それにしても息が長く馴れないと読みにくく、すぐには理解しにくい文章である。
 これは今読んでいる古井由吉の『野川』という作品から拾い出した文章である。
 この作家は若い頃はもっと粘りつくような生々とした文体で、オフの体質では受け付けがたいものがあったが、その後大病をして入退院を繰り返したりしたらしく、相変わらず息は長いが、枯れた調子に変わってきたような気がする。 そして味わい深いこの文章は読めるようになってきた、こちらもそんな年になったということだろうか。もちろんこんな暑い夏の日、読んでいる内にすぐウトウトと眠くはなるのだが・・・