お盆

 昨夜は自宅に着いたのが遅かったので気がつかなかったが、材木の束が二っドンと小屋の前に置かれていた。 少し涼しくなったらこれらの材木を切って薪にしなくては・・・。 

 迎え盆の今日、午前中母親と死者のお迎えのため墓に詣でて線香、蝋燭、花を立てて祈った。
 お盆は先祖崇拝の宗教行事で、一応数珠などを持って仏式でおこなっているが、本来の仏教の教えとは無縁のものである。 何時の頃からか我々は先祖崇拝という日本古来の宗教的な作法を、仏式で行うようになった。 葬式をはじめ法事、墓参りなど死者の弔いに我々は口では南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経と今日唱えているが、墓や仏壇の前で頭を垂れて祈っているのは先に死んでいった縁のあった人々の姿へであり、すなわちイメージされる先祖へ頭を下げているのである。
 それらの死者はお盆の今日13日にに娑婆に帰って来て、16日にまたあの世へ帰っていくという。
 決して善男でないオフは、年に一度ぐらいそれも良いか・・・程度の気持で今日手を合わせてきた。

 しかし考えてみるとこの宗教行事は、日本人の成り立ちを考えると、かなり根深いものがある。
 それは仏教などが日本人に取り入れられるずっと以前からの古い宗教行事に根差しているものあると思われる。 おそらくこの先祖崇拝の宗教行事の原型は、縄文時代のこの国に人々が住み始めた頃まで遡れるのではないだろうか。 天皇家で受け継がれている新嘗祭(その年に採れた収穫を天津神国津神にお供えし、その後、そのお供えしたものを天皇がいただく、という儀式)などは、その原型が米作り、すなわち農耕文化の始まり、すなわち稲作のイワレまで遡れると思うが、民間信仰のこのお盆の宗教行事は更にそれ以前に遡ることになると考えられる。 たとえ何らかの理由で天皇家が絶えた、としてもこの行事は日本人の間に残る可能性はある。 考えてみれば天皇家があって我々があるのではなく、先祖があって我々があるというのは、もっとも解かりやすく根深い思想だといえるのである。