『ららら科学の子』

変わらない人間、それはどんな時代でも周りから見ると、融通が利かなくて、どことなくどん臭い存在として受け取られやすい。 まず思い出すのはオフの子供の頃、戦前の家制度の上に胡座をかいているような形でまわりを仕切っていた人。 普段はどちらかと言えば寡黙な方なのだが、ことお祭りとか、伝統的な行事の場になると途端に、しきたりとか、家の格とか、あいつは他所者だとかと差別的な発言を述べる御爺さんがいた。これは嫌だった。 しかし、今はそのような人を相変わらず好きではないが、若い時ほど嫌いではなくなった。 変わらないもの、あるいは変わらない人、というものを呆れるが、これもまたアリかな、と少し笑って見れるようになった。
 昔グアム島とフイリピンのジャングルに逃げ込んだ日本軍の兵士が居て、約三十年振りぐらいに日本へ帰ったきて大いに話題になったことがあった。 正直言って当時のオフの受け取り方はアナクロニズムとしてしか受け取れなかったが、先の戦争を戦った父親の世代にとっては、彼らの存在は自分達に対して何かを深く問いかけたと思うのだが・・・

 戦後生まれの団塊の世代全共闘として闘争した男が、三十年間電気もない、バスも通わない中国の僻地にいて、その間まったく情報もない状態で、突然日本に戻ってきた。 矢作俊彦作『ららら科学の子』はそんな話である。 この著者の書いたものを読むのはこれがはじめてである。 この作品で三島賞だかを貰っていたし、新聞だったか誰かがかなり当作品を評価しているのを読んだことがあったし、さらに生まれが同じ団塊の世代だし、オフとしてはかなり大きな期待を持って読んだ。

 最近おとなり日記で知った<斜めから見る>というなかなか素敵な日記をかいている人が、以下のように書いていた。
 
 ≪ずいぶんと前の話になるんですが、矢作俊彦の『ららら科学の子』を職場で読みはじめて、ほとんど泣きそうになったことがありました。
 その物語の説明はむずかしいのですが、大雑把に言えば、その中では、全共闘の時代に機動隊を殺しかけたために中国に逃亡し(というべきか?)、その地で文革に巻き込まれてしまい、中国の南部に追放されたまま三十年間過ごした主人公が日本に戻ってきて、東京で過ごす日々が描かれています。     

 それで、僕が泣きそうになった理由に戻れば、主人公の喪った感じがとてもうまく描かれていたということが一番大きい。

 この物語は「喪失」という言葉を使わずに、それをとても上手に示しているように感じます。「理なき」文革に巻き込まれ、人生のほとんどが失われてしまったこと。そうでなければ、東京に戻ることによって、かつての、三十年前の世界が失われてしまっていること。そんな具合に、物語の中では、主人公が様々なものを失ってしまったことが示されるのだけれども、その喪失感というか空気のように漂っている曖昧な、でも、心のやわらかい部分を突き刺してしまうような感覚を実にうまく描いているように思いました。 (中身を一部を省略)≫

 この日記の作者の年令は分らないが、オフの世代よりかなり若いと思われる。

 残念ながらオフはこの作品を泣きそうになるどころか、逆に終始シラットしながら読んでいた。
 それは同じ全共闘世代であるから、だからこそ逆に突き放して読めなかったせいがあるかも知れないと思う。 これはあらためて書かねばならないが、全共闘運動は自分達にとって政治的な闘争というより、存在とか、生き方を問うようなレベルでの闘争だったのだが・・・まあ、それは良いとして、どこかで<思想とは過去にこだわることだ>とたしか吉本隆明が言っていたと思う。
 変わらない人というのは一面疎ましいのであるが、ちがう意味で魅力的であったりする。 それは彼等の存在そのものが、大なり小なり変わってしまった今の自分を、するどく照射するからであると思うからであるが・・・
 失ったものというのは、それはやはりどこかで捨ててきたものであると思う。 やれやれ、何を言っているのであろうか・・・なんだか今日は言いたいことがまとまらず、訳の分らない支離滅裂の感想になってしまっているので、このへんで・・・