『日の砦』

 芥川賞作家の内で今七十代と思われる作家群、高井有一田久保英夫日野啓三後藤明生古井由吉古山高麗雄などがいるのだが、概して彼らの作品とは相性が合わない。 そうは言ってもそんなに読んでいるわけではないが、せいぜい一冊づつぐらいなものだが・・・。
 それに彼らは一様に地味である。 それ以前の芥川賞作家である安岡章太郎吉行淳之介小島信夫遠藤周作開高健北杜夫などと名前を挙げて比べると明らかに違うのが分る。 知名度もあまりなく、おそらく文学好きな人を除けば、その名前をあまり知られてないだろうと思われるし、作品を読んだという人も少ないだろうと思う。
 彼らをやや皮肉を込めて文学という蛸壺に引きこもった作家群とでも言えばよいのだろうか・・・。
 彼らの地味さが人々を文学から離反させたと言っても良いような気がする。 まあ、だからといって彼らが悪いといっている訳ではないのだが・・・全員がそうか知らないが、学生時代と作家生活を始める間に会社員の経験がある・・・なんというか手堅く作家になった世代とでもいえばよいのだろうか・・・。
 その内の一人である黒井千次の『日の砦』を読む。
 会社を定年退職した男が家庭の中に毎日居る。 一つ屋根の下に住む家族はその男と妻と娘の三人である。 もう一人長男がいて、もともと四人家族だったが彼は最近結婚して家を出ている。
 読んでいて変なことが気になった。 なんというか家族の位置が近いなぁと思ったのである。
 これは家族の仲が良いとかでなく、家の中がなんとなく狭っ苦しいというのでもなく、だがなんとなく人と人の居る位置が近いというか・・・存在の距離が近く感じるのである。 まあそこにいるのは家族なのだからそれでいいようなものだが・・・大都会近郊のマイホームにしろ、マンションにしろ平均的に見ればせいぜい住空間が三十坪ぐらいのところに家族が住んでいるのであるから、それはまあ致し方ないことだろうが・・・とにかくそんなことが妙に気になった。 かといって、たとえば向田邦子が描いていた戦前のサラリーマン家庭の広さも、そんなに変わりなかったような気がするし、戦後初期の典型的なサラリーマン家庭であるサザエさんの家の広さもせいぜいそんなものだっただろう。 そうであってもそれらの家庭がことさら狭いナァとは感じなかった。 そのことについて少し考えてみたが・・・まず家族があって、そのなかに個々人がいた家庭と、個々人がいてその個々人が家族をなしている家庭の違いみたいなものだろうか。 とのかくここで描かれている個々人がいてその個々人が家族をなしているような家庭の場合は、もう少し距離があったほうが良いような気がしたのだ。 というか定年した主人の存在がなんとなく余分に思えるというか、ありていに言えば邪魔者がひとりいるナァと感じただけかもしれないが、それはオフがもうすぐその年になる男だからそう思うだけかもしれない。
 いずれにしろ、団塊の世代の男達はもうすぐ定年を迎え、朝起きても行く所がなくなる。 子供達は学校を卒業していて仕事に行っているだろうし、結婚していればすでに家を出ている。 朝起きても行く所がなければ、いやがおうでも夫婦は終日顔を付き合わして暮らさねばならなくなるだろう。 それがお互いに嬉しいことなのか、鬱陶しいことなのか・・・この小説の中でも、娘が仕事から帰ってきて顔を出したり、口をはさんだりすると奥さんがホッとする場面がいくつかあって、読んでいてこちらまでホッとしたりして・・・。  以上のようなことを読者であるオフに感じさせただけでも、この小説は成功しているとも言えるが、なんというかあまりにも見事に地味なのである。 作者は日常生活を書くいじょう、所詮日常とはそんなもんだと言うのかもしれないが、チマチマした真面目臭い視点がとにかく人を鬱陶しい気分にさせる。 人々が文学から離れていったのは致し方ないナァと思いながら読み終わる。