おわら風の盆

 今夜はおわら風の盆の三日目で最終日である。 昨年はこの最終日の夜遅く出掛けて、背筋がぞくぞくするような体験をした。 ギャラリーが少なくなった静かな夜中だかこそ味わえた感動だったと思う。 後日酒の席で友人達にその話をしたら、今年はみんなで出掛けようと、その場で話が決まった。
 しかし、今年は三箇日とも平日で無理かなぁと思っていたら、ぎりぎりになって一人を除いて0時前にそちらに行くとメールが入った。 八尾の人たちは最後の夜の今夜をシラシラト夜が明けて来るまで踊りあかすのである。
 昨日から柳美里の『八月の果て』を読み始めた。 この作品は朝日新聞に掲載されていたので、最初の内は読んでいたのだが、もともと新聞小説を読む習慣がないので、いつの間にか読まなくなり出版されるのを首を長くして待っていた。 背表紙に、今をときめく福田和也氏が「小説の可能性を爆発的に拡大した平成の金字塔。この昂りを通らずには、いかなる文学の未来もありえない」などと最大限とも思われる賛辞を書いている。 なにせ8百ページを超えるぶ厚さの本だが、彼女の文章は読みやすい。 その出だしの部分は以下のようである。
 ≪すっすっはっはっ 息が心臓に鞭をくれ赤い馬がおれのなかを駆けめぐり 汗の一滴一滴が叫びとなってふるい落とされる 叫ぶいや叫ばない おれはうたうのだ 骨も朝鮮 血も朝鮮 この血この骨は 生きて朝鮮 死して朝鮮 朝鮮のものなり ・・・≫ 
 息が心臓に鞭をくれ赤い馬がおれのなかを駆けめぐり・・・走る人を描いているのだが、なんとも簡潔で素敵な表現である。

 午前中本を寝転がって読んでいたのであるが、急に思いついて部屋の片付けをしたくなった。
 四年掛かった山の家作りは昨年で終了したのであるが、使った道具は三箇所ある押入れの棚の上にがちゃがちゃに並べて置いたままであった。 まだまだ手直ししたいとこもあるだろうから、と当分そのままにしておこうと思ったからである。
 しかし、この一年何もしなかった。 本当に何もしなかった。 まさに左のものも右へ動かさないほど何もしなかった。 ずっと働きづめだった四年間の反動だろうか、これでいったん終りと思った瞬間から何もしたくなくなってしまったのである。 道具類や余った器具などは雑然と押入れ棚の上に置いたままだったが、細かいものまでどこに何があるかはしっかりと頭の中に入っていた。 しかし、涼しくなった今日、急に片付けたくなったのである。 いずれ片付けようと買い置いてあった中身の見える衣装ケースを出してきて、大工道具、電動工具類、電気配線関係器具や道具、壁塗りや襖貼りの道具、釘やコーススレッド、などとケースごとに分けて仕舞い一箇所の押入れにまとめて置いた。
 ようやく長年の課題を片付けたような、すっきりとした気分になれた。 ついでに部屋に掃除機をかけ、要らないダンボールの箱などその他燃えるものは潰して燃やした。 まだ土間に雑雑と置いてある配管などの道具や器具は片付けてないが、これは後日の楽しみに取って置く。