「華氏911」

 神戸滞在中に今年も9・11が過ぎ去った。 あの日からちょうど三年目に当る今年の9月11日の朝日新聞の第一面のトップニュースは「プロ野球スト今週は回避」であった。 紙面には9・11関連の記事がいくつかあったが、この日の社説は郵政民営化についてとプロ野球ストについてであり、三年前の事件には社説ではふれられてなかった。
 この三年前のこの事件は全世界のその後の流れや影響を考えると、つまりそれ以前とそれ以降の世界のありようの違いや、自分の考えに及ぼした影響を思えば、ベルリンの壁崩壊に継ぐメガトン級の事件だったなぁ、とあらためて思う。 間違いなくこの先の21世紀の流れを作ったもっとも重要なメルクマール的な事件としてこれからも記憶、記録されるだろうと思う。
 とにかく世界の流れはあの事件を境に決定的に変わった。 とくにアメリカが変わった。

 あの事件の報復のためと、国連の決議を無視してでも、他の主権国家を無条件で先制攻撃することが許されるとしてアメリカはイラク戦争を始めた。 つまりアメリカが一方的にイラクの向けて先制攻撃をしかけて戦争を始めてしまった。  さらにアメリカが侵略を正当化する理由として揚げた、イラク大量破壊兵器の隠匿はまったくでっちあげでしかなかったことがその後明らかになった。 二十世紀であればこれは文句なく国家の横暴と裁かれるべき大問題だった。 今その横暴を理由にいかなる国家もアメリカに制裁を出来ないでいる。 本来なら湾岸戦争時にクゥエートを先制攻撃して侵略したイラクを全世界が制裁、攻撃したように、アメリカを全世界が制裁、攻撃することが何よりも20世紀的正しい選択だったのに・・・今アメリカの大統領選挙を前にとかくブッシュ氏か、ケリー氏かと大統領としての資質などが問題視されているが、問題はブッシュ氏個人などの資質が問題ではなく、アメリカという国家そのものがあの事件を境に変質してしまったことが問題なのだ。 9・11テロの背後にはフセイン大統領のイラクがいたのだと、どう考えても説得力のない、でっち上げなプロパガンダにたいしても、そうだ!そうだ!やっつけろ!やってしまえ!あいつは自由の敵だ!と叫ぶ民主国家アメリカ国民の変質がある。 さらに彼らは大量破壊兵器の隠匿がでっち上げであったことが明らかになっても少しも動じない、テロリストを世界中から一人残らず殲滅するまで戦うことが正しいことだと叫んでいる。
 
 今はものごとが正しいか、正しくないか、そういうことがアメリカにおいてまったく問題にならないのである。 彼らにとってとにかく目の前にある自分達の安全がすべての問題に先行するのである。 安全を脅かす恐怖をどのような手段であれ取り除くことを約束する人物なら、少々嘘つきでも、欲張りでも支持しようという雰囲気が国民を覆っている。 漠然とした恐怖のため、あるいは自分の安全の確保のため、人々は国家によるさらなる強い統制を望み、国家へ個人の心の自由や人間的な権利や尊厳さえ差し出すことさえも喜んでいるようにすら見える。 ブッシュ大統領が力によってテロリストへの押さえこむと大統領候補の承諾演説をしただけで支持率が二桁の伸びを見せる。 世界最大の軍事力を持つアメリカが、その軍事力を背景に世界を支配しようと乗り出すことを、アメリカ国民が露骨に支持しはじめたのだ。 なによりも怖いのはその大多数のアメリカ国民が一部の知識人を除けばあまりにも世界について無知なだけでなく、あきれるほど無関心であり、無知、無関心でいることにまったく違和感を持たということである。 さらにもっと怖いのは、アメリカ国民が自分達の掲げる正義のために、他者を傷つける自分達の強大な力と底知れぬ欲望にあまりにも楽天的だということなのである。 

 マイケル・ムーアー監督作品「華氏911」を見た。
 この作品がその前評判とは裏腹に、映画作品、映像としての期待は見る前からさほどないだろうと個人的に予想していたが、残念ながらと言うべきか、その予想通りの作品で、つまり映像として強くこころを打つほどのインパクトは何も無かった。 あえて言うならば映画としては薄っぺらな作品であった。
 たとえば9・11の事件が起きた同じ時間に幼稚園を訪問していたブッシュ大統領が、テロの情報を側近から耳打ちされた時の映像があった。 作品の中でブッシュ氏のいわば大統領としての、指導者としての資質を茶化しながらコメントを入れて編集してしまったところなどは特に残念だった思う。
 その数分間の映像をまったくコメントなしで、ただただ時間いっぱい流すだけでも、ドキュメントとしては第一級の説得を持っていたのだが・・・その時の大統領はその場でのなんとも不可解な表情を見せ、見ている者に否が応でも彼の人間性への不安や不信感をかもしたと思うからであるが・・・。 
 監督の意図があまりにも強引であるため、ムーアー自身の考えや主張にそって取材した映像だけを意図的に都合の好いように編集した半面教師的な作品、どちらかと言えばキワモノ的な作品と取られても致し方のないような仕上がりだった。 その点が先の作品「ボーリング・フォ・コロンバイン」と比べると明かに作品的に見劣りする点だ。ドキュメンタリーは公平に撮りながら、その中にどちらがより醜いのかを、観客に選ばせるような作品でなければ強い説得力は持たないと考える。
  しかしそれをもってこの作品をブッシュ批判に塗り固められたプロパガンダ作品で、ブッシュ陣営が侵した大義のない戦争と大差ない扱いをして批判するのは間違いであると思う。 こういう問題はあくまですべての情報を握りうる立場の国家と、いち個人を同列にして語るべきではないからである。 むしろ、当時一切の批判に頬かむりをして、権力が好む情報だけを流すことを是とした全アメリカのマスコミに対しては、この作品は鋭い批判を成立させていると思う。
 だが、あえてだがである、ブッシュ氏の嘘や悪を暴こうとすればするほど、その背後にあるアメリカ国民の醜い変質が隠されてしまったように思えるのである。

 残念ながらオフの作品としての評価は低く、甘々に見積もってもせいぜい20点にしかならない。