「16歳の合衆国」

 今回も神戸で二本の映画を見た。 「16歳の合衆国」、映画を鑑賞するという意味では「華氏911」よりむしろこちらの映画の方を見たかった。

 どこにでもいそうなごく普通の、というか繊細で物静かなタイプの16歳の高校生が、ある日突然、恋人の弟の知的障害児を刺し殺してしまう。 少年は「僕はどうやら間違いを犯してしまった」と語るだけで、その動機も理由も口を閉ざして語らない。 その何故に?に対して、彼はマスコミや大人は犯罪に理由を求めているだけだ・・・と答えるだけである。

 このような設定の話なので映画を見ながら、同じように知的な障害児を殺害した神戸の少年Aの事件がます頭に浮かんだ。  人を殺す経験がしてみたかった、と言って主婦を殴り殺した高校生もいたことも思い起こした。 果てはドストエフスキーの「罪と罰」の主人公、ラスコリィーニコフのことなども思い起こしていた。

 この映画の中で描かれていたリーランドという少年が、知的な障害児を殺すという設定が最後まで引っかかった。 どう考えてもこの繊細過ぎるほどの少年リーランドが殺人を犯すこと、しかも相手がほぼ無防備な知的障害児であるという設定はどうも無理があると引っかかってしまったのだ。 それはとにかく起きてしまった事件として受け入れて、その後の展開に目を移すべきなんだが・・・と暗闇の中で何度もこころの内では思ったのが、ダメだった。 何となくそれらしきこと、伏線となるような、ならないようなことは幾つか上げられてはいるが、やはりこの映画に結論はない。用意されていない。 
 男が浮気したりすること・・・彼は自分が笑いものになっていることを知っていた・・・人は裏切るものである・・・しかし、それらが人が人を殺すことと同次元では語れるものではないと・・・ない、ない、ないが最後までこころの内で連なったまま、気が付くと映画は終わっていた。
 殺人を犯すというのは恨みや復讐や怒り、侮蔑、愉悦、欲望、恐怖などの比較的低次元な感情に根ざしているか、または信念というかイデオロギーなどが背後にある場合が考えられる。
 結局、動機も理由もあいまいな事件を設定して、状況証拠みたいなものを並べて動機や理由がないことをテーマにした物語を造っても、それを突きつけられた人のこころを揺り動かすようなことはないと思う。
 この映画に対して言いたい事は、ただただ一点。問題提起をすることはたしかに重要だが、その問題が起こる根本をもっと考え抜いた上での脚本であって欲しかったと思う。

 神戸の少年事件は性的なサディズムが背後にあったことを医学的な報告としてなされている。 あの事件に関しては、それがすべてなのか・・・と一方では思いながらも、マスターベーションする時に女性ではなく自分が殺人を犯している場面を想像してしていたとの少年の発言があり、たしかに少年は犯罪後、死体を処理しながらマスターベーションしたり、その血を飲んだりしていた一連の行為などもあるのは事実だ。
 ラスコリィーニコフはイデオロギーというほどのものではないが、老婆を殺すにはそれなりの彼の理屈はあった。 豊川の事件は、あの衝撃的な台詞にどうやら嘘が見える、優等生を強いた父親への怨恨が、父親を困らせてやりたいという動機が背後から彼を動かしただろうし、当時少年はかなり心身症的な状態にあったと思える。
 この映画の評価点 25点