『遠い太鼓』

 今回電車の中で気楽に読めるものを、と借りてきたのが村上春樹著の「遠い太鼓」で、これをバックに入れて神戸へ行った。
 村上が80年代終りに三年間主としてギリシャ、イタリアで過ごしていた時の手記である。
 この三年間の外国滞在中に彼は、ベストセラーになった「ノルウェーの森」や「ダンスダンス」を完成させている。
 彼はこの本の冒頭で、ある日突然、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ、と書いている。
 思えばこの時期日本ではちょうどバブルが絶頂期を迎える前の三年間だったし、大戦後の冷戦が終わる前の三年間でもあった。 そして最後頃に彼は書いている、彼が日本を出る時に雑誌は三浦和義などの記事で埋まっていたが、帰って来た時には、雑誌のどのページを開いても宮崎勤の犯罪についての記事ばかりだったと・・・その日本へ帰りついた彼が見たものは、日本そのものが巨大な収奪機械になっている姿だった。 それは生命あるもの・ないもの、名前を持つもの・持たぬもの、形のあるもの・ないものーー物事や事象を片っ端から飲み込み、無差別に咀嚼し、排泄物として吐き出していく収奪機械、さらにそのビックブラザーとしてのマスメディアで、まわりにはおびただしい咀嚼されたものの悲惨な残骸と今まさに咀嚼されようとしているものの嬌声で溢れかえっていた、と書いている。
 その三年間にいろんなことが変わってしまい、日本という国自体もずいぶん変わってしまった。国外で過ごしていた村上自身も日本とは違う意味で変わってしまい、その結果、彼と日本の間にある種の乖離が生まれ、また歩み寄りもあった、という。 なんとなく分るような気がする。

 この時期、日本の中にいたオフは知らぬ間にそのバブルの狂乱に踊らされ、流されていた一人だったとおもうが、その時期を前にして思い立ったように旅に出た村上は、やはりどこかでその時の日本に自分の居場所がない違和感と、危機感があったのだろうと思う。 それはまさに賢明な選択だったと思うが、やはりその選択を選んだ彼にはなにかここにいてはダメダというような切羽詰った嗅覚のようなものが働いたのだろうと思える。 
 そんな嗅覚も、勘もなく、ただただ踊らされ、流されたオフであったが、幸いその後大きな火傷をしないで済んだのは、たまたま、そう、まったく、たまたま運が良かっただけだった、と思っている。
 そんな時を経て自分が学んだただひとつのことを言葉にすると、謙虚に生きよ、ということになるのだと思う。 村上春樹のこの本を読み終わってボンヤリそんなことを思ったりしていた。