キャッチャー・イン・ザライ

 D・H・サリンジャー著、村上春樹訳の『The Catcher in The Rye』を読んだ。
 ≫いったいどいつがベンジーで僕の手袋をかっぱらったのか、探し当ててやりたいもんだと思った。僕の手はもうすっかり凍りついたみたいになっていたんだよ。もっとも犯人が誰だかわかっていたとしても、僕に何ができるってわけでもないんだけどさ。僕はすごく臆病なやつなんだ。なるべく表に出さないようにしているんだけど、とにかくそれが僕だ。たとえば、誰がベンジーで僕の手袋をかっぱらったのか、もしわかったとしたら、僕はたぶんそのこそ泥の部屋に行ってこう言うと思う。「オーケー、あの手袋を返してくれよな」と。でも手袋をかっぱらったそのこそ泥はたぶん、なんのことだかわけがわからないという声で、こう言うと思う。「手袋ってなんだよ?」ってさ。で、そこで何をするかっていうとだな、僕はたぶんそいつのクローゼットを開けて、どっかから手袋をみつけだすと思うんだ。それはたとえばろくでもないオーバーシューズかなんかの中に隠してあるわけだ。僕はそいつを取り出し、相手に見せる。そして言う「ほら、これはきっとお前の手袋なんだろうね?」。するとやつはすごく驚いたような嘘っぽい顔をするんだ。そして「そんな手袋、見たこともないぜ、でももしそれがお前のなら、持っていきゃいい。そんなものおれはいらないんだからさ」って言う。僕はたぶんそこにあと五分くらい、じっと立っているだろう。その手袋を手にしっかりと握りしめてね。実のところ僕としては、そいつの顎にがつんと一発くらわしてやらなきゃと思っているわけだ。顎を砕いてやりたい。でもそんなことをするガッツがないんだな。ただそこにじっと立っているだけだ。自分をタフに見せようって精一杯つとめながらさ。
 で、僕が何をするかというとだね、たぶん何か辛辣で嫌味なことを口にすると思うんだ。相手の気分を悪くするためにね。つまり相手の顎に一発くわせるかわりにだよ。で、もし僕が何か辛辣で嫌味なことを口にするとだね、そいつはさっとベッドから起きあがって、こっちに詰め寄ってくると思うんだ。そして言う 「おいコールフィールド、お前は俺のことをこそ泥って呼ぶわけか?」ってさ。で、僕が「そう、まさにそのとおりじゃないか。この薄汚ねえこそ泥野朗が!」って言い返すかっていうと、そんなことはなくて、たぶんこんなふうに言うのがせいぜいだと思うんだ。「はっきりしているのは、僕の手袋がお前のろくでもないオーバーシューズの中にあったってことさ」ってね。そこで相手の男は、一発くらわせるつもりが僕にはないんだってことを即座に見抜いてしまう。そこでやつはかさにかかって言う。「おい、話をはっきりさせようぜ、お前は俺がそれを盗んだって言うのか?」で、たぶん僕はこう言うだろう。「べつに誰が盗んだとか、そ言うことを言っているわけじゃないんだ。言いたいのは、僕の手袋がお前のろくでもないオーバーシューズの中からみつかったってことだけだ」。そういうやりとりが下手すると何時間もえんえんと続くわけさ。しかし結局のところ、僕は相手に一発もくわせることなく、そいつの部屋をあ
とにするだろう。それからたぶん洗面所に行って、こっそり煙草なんかを吸って、鏡に向かってなるたけ自分をタフに見せかけるわけだ。
 とにかくホテルに帰る道すがら、ずっとそんなことを考えていた。臆病であるってのはあんまり愉快なことじゃないんだよ。あるいは僕は全面的に臆病ってわけではないかもしれない。よくわからないけどさ。ある部分においてはたしかに臆病なのかもしれないけど、ある部分においては手袋がなくなったって、まあしょうがないじゃないかとあきらめちゃうタイプなのかもしれない。僕の抱えている問題のひとつは、何かをなくしてもそんなに気にしないってことなんだ。そのおかげで、もっと小さかった頃のことだけど、母親をよく逆上させたものだった。世の中には、何かをなくしたらしつこく何日も探しまわる人間もいる。でも僕はといえば今までのところ、何があろうとこれだけは失うわけにはいかないというようなものを手にした覚えがないんだよ。たぶんそういうことも僕が臆病になっちまう理由のひとつかもしれない。でもだからそれでいいんだ、というもんじゃないよね。断じてない。人は臆病であったりしちゃいけないんだ。もし君が誰かの顎に一発くらわせる状況にいて、やってやろうじゃないかという気持ちになっていたとしたら、君はやっぱりそうするべきなんだ。でも僕ときたら、そういうことにぜんぜん向いていない。僕としてみれば、顎に一発くらわせるよりは、相手を窓から突き落としたり、斧で首をはねたりするほうがまだしも楽なんだ。げんこでの殴り合いってのがどうも好きになれない。自分が殴られる
ことはそれほど気にならない。いや、そりゃもちろん殴られて楽しいってわけはないけどさ。でも殴り合いをするとしていちばんおっかないと思うのは、相手の顔なんだよ。僕は喧嘩相手の顔をまっすぐ見ることができなくて、そいつが障害になるわけだ。だからお互いに目隠しをしての殴り合いなんてことになったら、僕だってけっこういい線はいくんじゃないかな。これは考えてみれば、ちょっとへんてこな種類の臆病さかもしれないけど、でもなにはともあれ、臆病であることには変わりないよね。それをごまかすつもりはないんだよ。≪
 さすが両者とも一流作家である、淀みなく流れるほれぼれとする文章と名翻訳文である。

 名調子を長々と引用して、こんなことを書くのは少し野暮かもしれないが、気になったことを取り上げる。 それはその社会の文化の問題なのだと思うのだが、ハリウッドの映画などを見ていると気づくのだが、アメリカの社会では喧嘩、男の子同士の殴り合いというのが日本などよりは日常的によく行われているような気がする。 まあこの文章でもあったが、相手がズルをしたり、不正を行った場合、相手を正すことはすなわち正義である、という観念がことさら強いような気がする。 逆にいえば見て見ぬ振りをするのは男として卑怯であり、それは卑怯者のすることである、と。 もちろんこのような倫理感は洋の東西を問わずそうなのだと思うが、理をさとすだけでなく、力でもって、暴力を持って正す事はそれは非難されるべきではなく、むしろ勇気ある行為として大いに推奨されている。 それを受けてむしろ男なら悪に対しては力でもって捩じ伏せるくらいの器量でなければ、一人前の男でないというような正しく好ましい男の観念が、アメリカ社会では脅迫感にさえなっているような気がする。
 アメリカ社会はプロテスタント社会である。 プロテスタントは簡単に言えば父なるイエス信仰が基本の社会であり、イタリアなどの南欧カトリックは、ママンが中心の母なるマリア信仰を基本に持っていると思う。 それはキリスト教がその社会に普及する以前の社会のあり方が父権的な社会であったか、母権的な社会であったかで決まってくるのであろうと考えるている。 プロテスタントだから父権社会をなしているのではなく、父権社会だからプロテスタント信仰を選び育てたのだと思う。 またもう一つのキリスト教、主としてスラブ系の民族が信じるギリシャ正教はそれを選んだ社会が先祖を大切にするそのような信仰を要求する社会であったからと考える。 そういう社会の文化は基本となる子を生み育てる根っ子のところに、すでに深く根を下しているので、まず変わりようがないといっていいくらいだと思う。 たとえばそれは日本の男性のほとんどがマザコンを持って育つといわれるように子育てに始まって、その社会の人間の成立、在り様を決めるような深いところに根を持つている。