『狂気』

 夜のうち雨が降り、明けると上がっていたがどんよりした曇り空。谷間からはちぎれた霧が湧き上がっては流れ消えていく、心なしかほんの少し木々も色づいている。
 アメリカの住む中国人のハン・ジン著の『狂気』を読む。
 主人公の師である中国のヤン教授が脳卒中で倒れた。 意識が朦朧となった教授は病床で妄想に囚われ、あらぬことを次々に口走る。 高潔で尊敬を集めていた普段の教授とは思えないようなその内容・・訳がわからないまま請求されている膨大な出張経費、仮面夫婦と不倫、何者かに密かにゆすられている疑い・・・などなど信じられない事実を含めて・・・また教授自身の自分の人生への悔恨と、何者かへの激しくやり場のない憎悪、怒りが潜んでいるのである。
 時は1989年、おりから自由と民主化を求める学生達が北京の天安門広場に集り、北京は戒厳令が布かれ、投入された人民解放軍が戦車とともに広場へ迫る・・・
 学者としての将来を嘱望されていた主人公の将来に対する悩みと迷いと、一地方大学という小さな社会の中に顕在化している中国の支配層内部の利権とエゴイステックな欲望の絡み、さらにその時の一国の政治的な時代状況を相似的に俯瞰し、それらのすべてが暗部で繋がっていることを暗示する物語の内容、まさに全体小説、秀作である。
 このように自分をとりまく状況と大きな時代的な状況をひっくるめて捉え、物語化できる力のある作家が今の日本を見渡してもいないのが残念である。 もちろんこの国では、原則の底が抜けてしまい、何でもあり、何にもなしの収束しない状況ではあるが・・・