『アフター・ダーク』

 今回神戸には二冊の本を持参して行った。
 その内の一冊が一昨日ふれた『その名にちなんで』で、もう一冊のほうが村上春樹著の『アフターダーク』だったが、こちらの方は最初の一日か二日で読了してしまった。 その『アフターダーク』を読んでからまだ十日あまりしか経っていないのだが、ストーリィの流れは何とか覚えているが、読んだ直後の感想の記憶が抜け落ちたようになって出て来ない。 これは春樹の作品全般に言えることなのだが、読んだ直後は強くインパクトを受ける・・・だがそこからいろいろ触発されてあれこれ考えるのだが、ほんの少しの時間の経過と共に、流れ去った車窓の光景のように忘れ去っていく・・・いったい自分が何を忘れたのかさえ分らなくなってしまうほど忘れ去ってしまっている・・・
 仕方ないのでもう一度ところどころ拾い出して読み返した。
 
 この物語の中では二つの事件が同時刻に起きている。
 そしてそれらの事件はお互いに関係が無いといえばそれまでだが、また同じように関係が有る、と言うことも出来るだろう。思えば今起きているいろんな事件にも自分が関わっていると言えるか、言えないか・・・この辺りは微妙な問題では有るが・・・
 例としてはよくないような気もするが、たとえば今オフの住んでいる山の家の近所で起きている熊の出没問題。 その熊の出没問題と現在首都圏に住んで日々静かに生活しているだろう見ず知らずの某氏との関係はどうだろうか・・・。 近年の過剰ともいえる経済活動が現在の地球の温暖化が台風を日本に上陸させている遠因で、そのことに因り山奥のブナやナラの落下が起こっていると考えていくなら、すべての事柄は同時に起きて深く浅く絡まっているとも言える。 これを風が吹くと桶屋が儲かる式の落語のこじつけと一笑にふせるだろうか。
 それはさておき、ある暴力がらみの事件は深夜に起きて、その事件はなんら解決を見ることなく、時間切れのように朝が来て物語りは終了する。 まあ、これがパルプフィクション的なサスペンスやハードボイル小説なら読者は何だこれは!と怒り出すこともあるだろうが、村上の小説を好んで読むような読者ならそれもありかと好意的に受け入れてくれそうだしなぁ・・・などと思う。
 本来なら一つに事件が起きてその事件が何らかの解決というかとにかく決着をみる。それに初めと終りがある物語として集約され提出され、それを読んで読者は何らかの感興受ける。
 しかし考えてみれば、われわれの周りではわれわれに関係なく日々いろんな暴力がらみの事件が起きているし、それらの情報がリアルタイムにマスメディアなどを通じて知らされる。 そしてそれらは解決する事件もあれば、そうでない事件もある。 それは言ってみればどちらでの良いことなのだが。 
 しかし、どうあろうと歯を磨いている間に、昼飯を食べている同じ時刻に残酷な事件は同時に起こり、何もない時と同じように時間は流れていっている。 それらの事件はリアルタイムで情報となってわれわれの間を駆けめぐっている。 それらの事件に対してわれわれはテレビで見たり、新聞で読んで被害者のことを思い心を痛めたりすることもあるし、何の感興もなくすぐ忘れ去っていくこともある。 
 もちろん物語が成立するためには少なくとも起こった事件に対して人々の間に共通の認識が成立する基盤がなければならない。 熊の出没のように現在われわれの周りには複雑に絡み合い、錯綜した情報の渦があり、それらに幾重にも取り巻かれていることをわれわれは知っている。
 一人のとある美しく若い女がある日を境に部屋に引きこもり、以降ただ眠り続けている。
 ところがその若く美しい女性はわれわれにはうかがい知れないもう一つの現実で目を覚まし、そこから這い出ようとして必死にもがいているかもしれない。 一見われわれがどう生きていようと、その引きこもった見ず知らずの美しい女性と何の関係もないはずだと言うことは出来るだろうが、果たしてそうなのだろうか、誰にも分らないことなのだが・・・。 情報過多の現代において、その現代を俯瞰し、透視出来る物語を成立させるのはきわめて困難であるというのは間違いない。 現実とは言葉に置き換えられて初めて現実となるのであって、言葉で表現されない現実はなどというものは、それはないのと同様である。すなわちあらかじめ人がその現実にいても、その現実はその人にとって現実にならないということは充分ありうる。この尻切れトンボの物語は微妙な紙一重のところでかろうじて成立している、というのがこの物語へのオフの感想である