『二十三の戦争短編小説』 古山高麗雄

 ようやく古山高麗雄の戦争短編集を読み終わった。 23もある短編を一日一編程度の割で読んでいたので時間が掛かった。
 彼は先の戦争で召集され一応幹部候補生とされたが、そのコースから脱落し一等兵として外地に送られフイリピン、シンガポール、マレーシア、ビルマ、中国雲南省、タイ、カンボジアベトナムラオスの各国を転戦し、敗戦の後ベトナムで戦犯として囚われ、八ヶ月の実刑を言い渡された。 ちょうどオフの父親の世代の人である。 時間をかけて読んでいたし、その合間に同時にいくつかの本も読んでいたので、最初のあたりの話などは題名を見てもそれがどんな話であったか思い出せないくらいに曖昧になった。 後半部分にあった『子守り』という作品で彼は『戦艦大和ノ最期』を書いた吉田満について書いている。 彼は自分の身の回りに実際にいた以外の人に付いて書いているのはきわめて珍しい。 この作品の中でも戦争前後彼の周りにいた何人かの人について書くいているわけだが、ほとんどの作品はそうである。 彼の手法は戦争前後の時期自分のまわりにいた人達について書くことで、みずからの位置のようなものを明らかにしようし、ひいては彼をはじめ、彼らの人生を面白がるように振り回したあのとらえどころのない戦争の姿に迫ろうとしている。 彼の戦争について書かれた一連の作品はすべてその視点に立って書かれているといってよいだろうと思う。
 『子守』ではまず、旧友の石戸君について書かれている。 石戸君は古山に「自分はすぐ状況の人となる体質だが、君はその逆なんだな」と言ってコースから落ちこぼれる古山の<状況の人>となれない体質をうらやんだりする。 このなんとなく面白い話が『子守』の話のさわりである。
 戦後日銀の政策委員会庶務部長をしていたという吉田満はその意味ではまさに<状況の人>その人であろう。 彼は「戦中派世代の生き残りは、生き残ったことで存在を認められるのだはない。本来ならば戦争に殉死するべきものであり、たまたま死に損なったとしても、生きて戦後の社会をわが目で見たことに意味があるのであはなく、散華した仲間の代弁者として生き続けることによって、初めてその存在を認められる」と書いて、戦争での死者、生存者を含めた無数の日本人の自己犠牲、善意、無念の思い、果たされなかった願い、それを引き継ごうととする姿勢を貫いて生きること自分に課した人である。この吉田満のことを古山は<澄んだ光を発しながら燃え尽きた>と評す。
 それに対して自分や安齋さんは<泥水に押し流される川底の小石>のようなものと捉える。
 安齋さんというのは古山一等兵とはサイゴンの中央刑務所でのムショ仲間である。 彼は戦後は福島市の在で果樹園を営んでいるが、憲兵隊の留置所の看守をしていた時、大きな声でどなっていて留置人であるフランス人に不安を与えた罪で戦争裁判所で二年の禁固を食らった人である。 もともと地声が大きなだけの人なのであるが、二年の刑の前に釈放になり、そのことを「もし自分が人違いで釈放されたのだったら、誰かがその分苦しんでいる」と気にするような人である。 戦争には川底の小石のように拒めず奉公し、戦争中の生きがいは、ただただ年期明けを思うことだったろう人である。 安齋さんとは古山は話すことは少ないがどことなく気が置けない相手だった。 さらにこの話の最期にはもう一人の口数の少ないミキさんという人がでてくる。
 彼女は「奥様から、高麗雄はまるでミキの子どもみたいだね、と言われましたよ」語る、古山の家で女中をしていた女性である。結局古山彼女の記憶は思い出せないのだが、「いろんなことがありました、いろいろ思い出します」というばかりであるが、その彼女から庭で獲れたものをダンボールいっぱい貰って帰る話でおわっている。
 さて、先の戦争に関してはオフと同じ町の、人口1万5千の町では大手のU建設の社長の話をここに加えておこうと思う。  彼は先の戦争でフイリピンの第一線で戦った。 軍での階級は知らないが、数名の部下がいたという話だから下士官の軍曹ぐらいの位だったのかもしれない。 叩き上げの人だったから古山一等兵などをガンガン殴った口だったろうと思う。 フイリピンでの戦いというのはレイテ島の戦いだったかと思われるが、だいぶ以前に聞いた話なので忘れてしまった。 この戦いでは日本軍は制空権もなく、圧倒的な兵器と物量でもって上陸してくるアメリカ軍を目の前にして、連戦連敗でジャングルの奥地へ奥地へと退却していくしかなかった。 その後退戦の途中でU氏は上官に言った「これまでは上官の命に服して戦ってきたが、どう考えてもこの戦いは完全に負け戦である。このままで行けばわが軍のどうあろうと最期は全滅するしかない。どうせ負け戦を戦うなら、もう上の命にしたがって戦う気はない。後は部下を引き連れて自分なりのやり方で戦う」と宣言して、軍がジャングルの奥に向けて退却するのに反して、自分達は逆に敵に向かって進んだと言う。 結局彼等は全員生きて帰り、部下一人一人を故郷の親御さんに返した、と彼は言い、後で聞いたが、ジャングルの奥へ向かった日本軍は島の反対側へ追い詰められ、ほぼ全軍崖に転落して玉砕したという。 その時の話はそれだけで、Uさんはそれ以上語らなかったが、最初はジャングルの中でゲリラ戦を考えていたかもしれないが、結局Uさん達は米軍の捕虜になって全員生きて帰ってこれたのだと思う。 今は亡き人なのでそのへんは確かめようがないが。 しかし、当時、生きて俘虜の辱めを受けるな、などと言われ敵の捕虜になることは軍人として最も恥と教えられていたはずである。 だからこそフィリピンの日本軍は負け戦とわかっていても降伏が出来ないで玉砕したのだった。
 なぜだかわからないが最後の最後彼は泥水に流れる小石であることを止めて、この戦争について考えたと思う。 軍隊では、特に当時の日本軍では自分の頭で考えることは禁じられている第一のことであり、天皇陛下へのご奉公として死ぬことだけを教え込まれていた。
 彼は考えて・・・どこかで<生きたい>と思い、ついにはいつの間にかその思いに添って行動したのだと思う。 このような人は当時稀であったのだと思うが、しかし、オフの住むすぐ近くに居たことは居たのである。 この土建屋の社長はアクが強いが部下思で、戦後叩き上げで小さな町だが誰もが知っている建築会社を育て上げたが、最期は糖尿病で両足を切断し、目も見えなくなって後、他界した。