平成の大合併 (その2)

ここへ来てとみに日本の行政の財政状況が逼迫してきている。それは国も地方も同じことである。
 国の財政事情の悪化はバブルが弾けて以降の不況対策などの間違った政策からである。 地方の逼迫は国と地元国会議員が債務が付けてばら撒いた公共事業のツケがまわってきたからである。
 国は借金まみれ、地方も債務まみれ、両者の行政を立て直すことを霞ヶ関の官僚が考えさせた。  
 そこで出てきたのが三位一体改革、ありていに言えば地方行政の裁量を増やすが、国から地方へ行く金額は減らすよ、後は地方は地方で何とかしろということである。 さらに頭の良い官僚が地方の財政改革を、机上でコスト計算した結果生まれた奥の手が、「大合併」による地方行政の合理化というシナリオだった。
 もちろん現在の地方行政の債務状況などを見れば、財政改革を急がなければならないことはよく分る。 そのためには規模の大きい小さいに関わらず、膨れ上がった行政の効率化、合理化が必要なのである。 何をすれば一番良いかも誰でも分っている。 それは膨れ上がった職員の削減である。 つまり行政では職員をリストラせねばならないのが急務なのである。 しかしこれをどの市町村長もやれないでいる。 たしかに今回のわが新南砺市誕生に当っては議員、特別職の人員減で人件費は削れた。 しかし、結局、蓋を開けてみれば、職員の削減は今回の合併によって為されたのではなく、将来の課題、目標として掲げられただけである。 まあしかし、今回は堂々の大義名分があるので、来年から 退職者の補充を3分の1に抑えて職員削減を目指し、言うように少しずつ人件費を減らしていくだろう。 しかし、こんなことはわざわざ大合併をしなくても出来たことである。 全国には合併を否定して、財政健全化を目指して職員削減を掲げている自治体は幾つかある。

 まあ、たしかに大合併という大義名分があれば、ことはやりやすいことはたしかである。
 しかし、財政状況からみたコスト計算の上の合併で、人員を減らし、行政は合理化されて立ち直れるものだろうか。  そこにまったくリスクはないの?マイナスはないの?と考えねばならない。
 将来の行政のあり方を考えると合併によって規模を大きくしたことは、逆の方向にハンドルを切ったのではないか、将来にわたってこれはマイナスだったとなるのではないかとオフは思うのである。 

 また最近住みだした山の家のあるところはまた違う行政区域だが、もともとこの地は小さな村だったが、昭和(30年代)の大合併で他の7カ村と共に八尾町と合併した。  当時、八尾町から少し位置が遠かった理由で、ただ一カ村だけその合併に加わらなかった山田村というのがある。 今、同じ部落に住むアリ爺は酒を飲むとよく言う 「当時、山田村はただ一つだけ小さな村として残ったと皆で山田村のことを馬鹿にして笑ったもんだと、。しかし、今となってみれば一番良い目をしたのは山田村だったなぁ」と言う。 たしかにオフが5年前、あちこちで古い山の家を探していた時、山田村には空き家がほとんどなかった。みな人が住んでいのである。 八尾町へ来ると、山の地区は空き家が目立った。この山の家のある部落も30年代当時は二十軒あまりあった集落だが、今はオフの住んでいる家をいれて五軒しかない。 こちらは合併した後どんどん過疎化し、荒れる一方だったのである。 山田村では山の中の田圃へ行く農道はほぼ全部といってよいくらいセメントだが簡易舗装されているし、冬の間に道のノリ面や田圃が崩れてもその復旧は来年には行われ対応がきわめて早い。 またこれは全国的に知られている話だが、部落が山の各地に点在していて地の利が悪いので、村が全家庭にパソコンを無料で配布し、すでに光ファイバーで全家庭が結ばれている。 また感心するのは県道などの道の脇の草刈を日を決めて、汗を流して全村参加で行っている。 もちろん八尾町も草刈はしているが、業者に依頼してである。こちらは町民の税金で支払っている。
 また少し前に福野町砺波市の農協が合併しているが、これは農家の人たちの間ではすこぶる評判が悪い。 聞いてみるとまず一番に、大きくなって偉そうになったとか、対応が悪く不親切になった、という人ばかりで、よくなったと言う人は一人もいない。
 
 オフが一番危惧するのは、行政が大きくなると行政側もそうだが、住民側もお互いに顔が見えないだけに行政に対してよそよそしくなることである。 いったんそうなると、住民は行政に対して公務員は楽ばかりしている、などと陰で文句を言い始める。 両者の間に溝が出来て嫌なこと、悪いことはなんでも行政の責任にしてしまい、だんだん非協力的になるだけでなく、不要不急なことをなんでも行政に押付けるようになる。 そうなると結局いったん合理化で人も予算も減らしたと思っても、いらない仕事がいつの間にか多くなって、結局行政に人とお金と時間が掛かるようになっていくものなのである。
 20世紀的においてはいろんな場面において、大きくなるのは良いことだと考えられ、企業も行政もどんどん手を伸ばし、膨らんで行った。しかしそのような価値観はバブル以降とっくに破綻してしまっている。  21世紀的な行政の課題があるとしたら、それはいかに住民と密接に結びつくか、ということである。そのためには大きいより、小さい方がお互いに顔が見えて良いのは誰が考えても自明のことである。
  財力規模が小さい、人員が少ない・・・この悪い条件で行政として良い仕事をしていくためには、住民の協力を仰ぐしかないのである。 協力を仰ぐときに時に一番大切なことは住民と結びつきが密なことである。 じつはこのような逼迫した状態で良いサービスができない、と住民に助けを求めることは悪いことではない。その時住民と行政の結びつきが蜜ならば、住民は理解し、協力することをいとわないし、不満をいわないものと考える。 道の草刈のような経費削減に繋がる住民による人的な協力である。つまりあらゆる場面において住民によるボランティアである。 しかしボランティアだけを当てにするのでは心もとない。 現在のシルバー人材センターなどの仕事を多方面に広げて、そこの活用もあるだろう。 現在のどちらかと言えば外仕事的なシルバー仕事を、役所事務などの内務的な行政仕事へ広げていくことである。 こらから団塊の世代が定年を迎え大量の人々が第一線から身を引くが、今後の受け取れる年金事情なども雲行きが怪しい。 もう少しゆとりあるプラスアルファが欲しい人に、そこで週二三日でもいろんな職種のアルバイトをしてもらうわけである。 このようにして住民が行政の仕事に関わっていくことは、行政の仕事に対する関心を増し親近感も増す、住民自身が自分の住む街の自治を考えるきっかけにもなるだろう。

  功利的なコスト計算の考えで行くと、住民に良いサービスをするためにはコストがかかる。コストをかけなければサービスの悪くなるのが当然のことであると思われるだろう。
 身近でなく、顔が見えない、親しみのもてない大きな行政には住民は協力的でなくなるものだ。 この辺が霞ヶ関の机上のコスト計算では絶対に見えてこないところであるだろう。 オフは地方行政は小さければ小さいほど、身近であればあるほど良いと考えるのである。 身近で顔が見え風通しが良い関係の行政なら、本当に財政的にも困っているのなら、お手伝いして汗を流すことは住民は厭わないと考えのである。 これからの行政は使えるお金が少なくなるのだから、住民サイドに行政にに対しての理解と協力がなければ立ち行かなくなるのである。