『蛇にピアス』 金谷ひとみ

 昨日は神戸は朝から雨だったが、日本海側は雨は降ってなくて、南よりの風が吹いてフェーン現象、気温が夕方24度まで上がっていた。 昨夜、神戸から帰ってきた。
 電車の自由席は京都からほぼ満席で、横の席に若い女の子が座って気をよくしていたが、なんだか京都を出たあたりから急に眠気に襲われ、福井を過ぎるあたりまでぐうぐう眠り続け、ようやく目が覚めた頃に女の子は降りていった。
 出掛けに紅葉したいた山の家の前のカエデの葉は、もう半分散ってしまっている。

  先日、昨年の春の芥川賞受賞作の作品が図書館で借りれないでいる、と書いたが、その直後図書館へ行くと、金谷ひとみの『蛇にピアス』と第二作目の『アッシュベイビー』があったので借りてきて、とりあえず『蛇にピアス』を読んだ。 読了した直後は、何々これが芥川賞・・・という程度の感想だった。
 少し前に読んだ芥川賞藤野千夜の『夏の約束』はいつまでも読んでいたいような作品だったし、その後の読んだ吉村萬壱の『ハリガネムシ』の強烈さと比べていたのだが、明らかに提出している峰が低いし、その麓の広がりも小さいと思え、この程度の作品で有名な新人の登竜門をくぐるのは、かえって本人の今後にとって不幸だとも思えたのだが・・・そんな読了した直後の捉え方と、一日置いての捉え方ではこの作品への見方が随分変わり、時間の経過と共にその良さが分って来た。

 舌にピアスをしたり、背中に刺青を彫る行為を、どこかで <世の中への馴染めなさ、自身の体を傷つけることで、「馴染めなさ」を世間に見せつけ、壊れそうな内面を守ろうとする、すなわち身体改造は馴染めない精神を守るための行為である> といういう捉え方があった。
 それもそうだが、そればかりとは思えない。 たしかに何の明るい明日も見出せない暗く閉塞した心情が、舌にピアスをして、その穴を少しずつ広げて、先が二つに割れた舌スプリットタンにすることを<素敵だ>と感じたり、みずからを不敵なはみ出し者としてその刻印を押す、あるいはみずからを逃げないという刻印を背中に彫る、という心情はおぞましいが理解できないことはない。 そこに内側の心意気に美しさを見たいとか、いさぎよさとかを感じたい、深く共感できる心情を持てる、かどうかは別としてだが・・・。 人は程度の差や、傷口の深さの差こそあれ、このような心情を一部を青春と呼ばれる迷いの時期に持つのは不思議と思わない。 そんなものと生涯縁がなかったという人も多数いることはいるだろう。 しかし、作者はそのような<幸せな人>に、この作品を理解されることは最初から拒否しているようなところがあるし、その点では村上龍によく似ている。
 だが問題はそんなことではない。 ここに出てくる二人の男達、アマとシバとの関係を受け入れれて、法的な罪は別として、男としてのこの奇妙な落とし前の付け方を許せるかどうか、この作品を受容できるかどうかにかかってきているような気がする。
 問題は書かれるその内容の過激さに現代があるのではなくて、物語をどのように語り、その語り口に現代が掬い取れているかどうかだと思う。 言ってみればその作品が現代でなければ書けないだけのレベルを持っているのか、その提出される世界像は、既存の作品のくくりを打ち破るだけの質、レベルを持っているかどうかだろうと思う。
 芥川賞の受賞作にそのレベルすべてを期待するのは無理があるが、そのような感覚と力量が見て取れるかどうかだろ思う。 多分漫画や映像を日常的に接してきて育ってきている今の若い人は、感覚的な表現やストーリィーの展開の上手さなどの点では優れたものを持っているが、同時に脆弱さも同時に抱えている。 しかし、この作品の結末は言われているように安易さに流されていることはないと思うし、結末のある種のしたたかさは、やはり女性であるその性のしたたかさに根ざすものと見て良いと思う。 作者がこれまでの二十年どのような日々を過ごしたか知らないが、いったん身近な関係を突き放して、またこのように組み立て直し、この作品を作り出していると仮定すれば、たんに物珍しい題材を取り上げ、その若さだけで騒がれているだけの人ではないと思える。