『ナラ・レポート』 津島祐子

 先月はその日をうっかり忘れていて結局サボったことになるが、今日は朝から毎月一度のランチ作りのボランティアに参加した。 メニューの内の八宝菜を担当して三十人前子ども達と作る。
 このボランティアに参加していていつも思うことだが、子ども達に元気付けられているのは自分たち大人たち側だと・・・。

 津島祐子著の『ナラ・レポート』を読了した。
 彼女ははここのところ一年おきくらいに意欲的な作品を発表している。
 『火の山−山猿記』で山梨を、『笑いオオカミ』で終戦直後の東北を取り上げていたが、今度の作品では西に飛び、奈良をその物語の舞台に選んでいる。
 そして今度の奈良の地のこの物語の主人公は母親であり、その息子である。 母親は息子二歳の年に亡くなっているのだが、数百年、数千年の命を生きて、奈良の地のあらゆる時代を縦横無尽にタイムスリップし駆けめぐる。
 息子は奈良の鹿を血飛沫を上げながら殺害し、その両耳を切り取り、母親は奈良の大仏の首を撃ち砕く。 物語がはじまるやいきなり度肝を抜かれ、これはいったい何の物語が始まるのだろうと・・・。
 この、話が飛びに飛ぶ自在な物語、どう理解してよいのか最期まで苦しむ作品は、間違いなくわれわれの知る日本の歴史を根底からひっくり返す力を持っている。 それは徹底的に男を、権威を、歴史を、世界観を排除して母子の視点で現実を捉えているからといえる。 考えてみればこのような作品は、これまでの数ある女性作家も家や性の視点からを除けば誰一人として書き得なかった作品であるのは間違いない。
 結局、ここに描かれているのは大和の国の母と子(息子)の物語であるが、もちろんわれわれ近代の日本人は居ない、本居宣長の言うもののあはれを原点にする日本人の物語でもない。 『日本霊異記』や『今昔物語』や『義経記』に現れる怨念を内に秘めた<大和の国の母と子の物語>である。 読み進むうちに母子=マザーコンプレックスなどという近代的な言葉が頭の中に浮かんで、この物語のあるおぞましい着地点を予想してしまっていた。
 が、結論を言うと、それはものの見事に裏切られた。そうか、こんな決着のつけ方ががあったんだという意外感と同時に、それはそうだ、これは二歳の息子を残して死んだ母親の怨念の物語であったのだとあらためて確認した。 ここには<性>の問題は一切かかわることがない。なぜならその問題を取り上げるとかならず一方の極、男が出て来てしまい女は相対化されてしまうからだ。 そのため最初から作者はこの物語の中に<性>は意識的に排除している  そしてこの物語の、子ども=モリオとは<喜び>であり、この世を生きる人間が持たなければならない記憶なのだ、と指摘する作者の視線はは圧倒的であり、根源的である。