『クチュクチュバーン』 吉村萬壱

 最近は自宅へ出かけて庭仕事をすることが多かったが、今日は久しぶりに一日山の家にいた。
 外へ出たのはマロ君とお昼前に散歩に出かけただけだった。 山の道には落ち葉が散り敷いて歩くとカサカサと音を立てる。
 ほんの少し残っていた牛肉で、ビーフシチュウを作った。 いつもは沢山作りすぎて半分は冷凍ということになるんだが、やはり作り立てと解凍したものは味が違う。 これからは毎回タマネギ半個ぐらいの程度の量を作ることにしよう。 甘唐辛子を沢山入れて大人の味ビーフシチュウは美味しくできた。

 吉村萬壱の『クチュクチュバーン』を読む。
 昨日読了した『ナラ・レポート』と比べると、ついこれも同じ文学なのかと苦笑したくなるが、同じ文学なのである。 作者にとってこれがどうやら処女作ということになるらしい。 本の中には『クチュクチュバーン』と『人間離れ』という似たような二作品が納まっている。
 読み始めてすぐに作者の底なしの悪意のようなものを感じたが、読み進むうちにその悪意は首尾一貫、徹底していて最後まで変わることがなかった。 具体的には、すべての登場人物を死に至らしめ、登場するすべての人間という人間を等しく殺してしまい、そしてそこに結末をつける。
 ものを書く側、つまり作者にとって登場人物をいかようにも動かすことは出来るし、肯定するも否定するも、生かすも殺すもいわば自由自在の立場にいる。 だとするなら作者は時には誰でも一度はこのような作品を、登場する人間をことごとく死に至らしめるこのような作品を書くことを心の隅に思い描くことがあるのではないかと思ったりするだが・・・それはあまりにも考えすぎだろうか。
 しかし、この作者は、第一作でそれをやってのけてしまった。 この後、この上いつたい何を書くことがあるのだろう・・・と他人事ながら心配になってしまう。 しかし、この作者はこの後『ハリガネムシ』という芥川賞作品を世に出している。 われわれはこの『ハリガネムシ』は最期の結末が少し曖昧だが、その内容は先の作品とは何の違和感もないすぐれた独立した作品であることをすでに知っている。
 では作者はこのような処女作品で何を書きたかったのか・・・それは人間のすべての<物語>の同等な否定である。 ここに出てくる登場人物は六十億人いる人間のごく一部の人間達だが、彼らが生きる糧としている<物語>を、美談であろうが、醜い人間の物語だろうが何の分け隔てもなく、あるいは良き市民だろうが、おぞましい犯罪者であろうが、あこがれのヨン様だろうが、ブス女であろうが、金メダリストだろうが、落ちこぼれだろうが、みんな等しく、スッカンスッカンスッカン・・・とどこか人を馬鹿にしたような音を立てて近付いてくる緑の怪物にの前にバッサバッサ殺されていくのである。 そこにあるのは人間が生きる意味を見出しているすべての価値の崩壊の宣言であり、人が思い描いているすべての<物語>の否定である。
 そのような事態を目の当たりにした人間達に、またもや共同なある幻想(物語)がささやかれる。
 それを最後の拠り所にしようとする。 それは言ってみればみずからが人間としての尊厳を否定してみせることであり、具体的には、地面に仰向きになり、脚を挙げて拡げ、尻を浮かせて、肛門に手を回し直腸をつかみ出すという、人々が言ういわゆる<直腸出し>を緑の怪物の前でやってみせることであり、そうすれが緑の魔物は危害を加えないのだという。 あるいは緑の怪物の目の前で人を何の意味もなく殺す殺人者になれば、同類のものと見なしてくれて、やはり自分だけは殺害を見逃される、という噂である。 それらは追い詰められた人間がみずからだけが生き延びんがための最期の幻想、つまり物語なのである。 まさにここに人間とは何かを作者は表現しようとしいる。 つまり、どうあろうと納得できる自我を維持することの手立てと、どうあろうと幻想=物語を手懸りにしか生き得ないの人間の最終的なあわれな姿を、逆の側から浮き彫りにしているのである。それらを緑の怪物はスッカンスッカンとダイコンを包丁で切るように殺していくわけだ・・・・