五右衛門風呂の入り方

高気圧に覆われているが、北の高気圧で寒気を伴っているのだろうカラリと晴れない。
 一応晴れているが北よりの風が冷たく強い。 しかし三連の晴れマークの明日の予想最高気温は19度、前線が接近してきて雨マークが出ているが明後日はなんと20度!となっている。 しかし明日の朝の最低気温が放射冷却で4度と、霜が降りそうな気温だ。
 自宅の生垣の剪定した木の枝が、となりの田圃の畦に沢山散らばっていたので、まずそれを熊手でかき集め、来春燃やす予定の場所へせっせと運んだ。
 庭には薪小屋のほかに、一坪半ぐらいの小さな小屋がある。おもに庭で作業する時使ういろんな道具を雑然と入れてある。 通販で買ったアメリカ製の組み立て式の小さなシェルターである。 最初、百人乗っても大丈夫などとTVなどで宣伝しているストール製の小屋を買うつもりだったが、たまたま雑誌で見て急遽注文して取り寄せた。 わが庭にはスチール製のキャビネット小屋よりオール木製の小屋こそ似つかわしいと思ったからだが、値段こそそこそこだったが運賃がこちら持ちで、チャーター便で来たのでそちらが高ついてしまった。 床とか壁とかが一つのパーツになっている組み立て式で、説明では半日で組み立て可とあったが、要領が分らないので、結局一日がかりで組み立てることになった。 この小屋も我が家の庭の隅に建つてから10年以上過ぎた。 オール木製と書いたが、その通りで屋根も木製である。 外材の中では水に強いと言われているレッドシーダ、つまり米杉の段葺きの屋根なのである。
 しかし、いくら米杉が水に強いといってもせいぜい厚さが3センチほど板である、雨の多いモンスーン地帯の日本では10年ほどが限界だった。 先の台風でガタガタになって段葺きがところどころ抜けて来ている。一応下地に防水アスファルトシートを敷いてあるから今のところすぐに雨漏りということはないが、これから雪が降る季節なので早急に手当てをしなければならない。 とりあえずトタン板で仮に屋根を葺いておいて、後は来春になって考えることにしようと思う。

 お風呂へはその後二度ほど入って、だいたい五右衛門風呂の入り方の要領が分ってきた。
 まず最初に水の分量を半分から、三分の二ぐらい張っておいて、少し熱いぐらいにお湯を沸かし、それに水をどんどん差して、少しぬるいくらいにして、そこで湯に浸かる。 そうしていると少しずつ下から熱くなってくるが、そうすれば湯から出て身体を洗う。 身体を流すのに湯を使って最後に入るときは湯が少なくなっているが、熱いのでまた水を差して湯に浸かる。 その頃はオキになった火でゆっくりと湯が暖まってきて、身体もじわじわと温まるというわけだ。
 

 天気予報では曇りのち雨、となっていたが、どっこい快晴。雪の北アルプスの山々のパノラマが見ることが出来た。 薬師岳立山剣岳、そして剣岳よりもう少し日本海側にあまり知られてないが毛勝三山という連山があるが、この山の姿が意外と良くて、登ったことはなく見るだけであるが、好きな山ある。 この冬の日々にしてはこの晴れた日は儲けものの大切な日で切り枝から薪をつくった。 
 
 モブ・ノリオ著の『介護入門』を読む。 今年前半の芥川賞作品である。
 今年春、この作品で文学界新人賞を取った後、同作品ですぐ続いて芥川賞を受賞している。
 デビューした第一作で名のある芥川賞を取る作家は少ない、最近では平野啓一郎ぐらいかな? 早い人で第一作で何かの雑誌の新人賞を取って、第二作で芥川賞を受賞するようだ。 まあ、それだけこの作品がのもつインパクトが素晴らしいということであろう。 たかだか100ページぐらいの作品だが読んでいてグイグイと圧倒するパワーを持っている。 最近の芥川賞の男性の受賞者の中では比較的一般受けするというか、読ませる力を持っている長嶋有吉田修一などはそのスケールの点でやや小振りなことが、作品を追う毎に見えてきているが、その後に続く吉村萬壱モブ・ノリオはまだ作品数が少ないこともあるが、まだ底が見えないスケールの大きさを感じさせてくれている。
 さて、この介護入門という作品だが、玄関で転んで脳が陥没したおばあちゃんを意識不明の状態から蘇生させ、その後も夜は添い寝して介護を続けている孫の独白小説ある。 一方、彼は齢三十にして頭を金髪にしてヒップホップ狂いで定職もなく、大麻常習者のハナツマミの困り者なのであるが・・・

 ≫電動ベッドの上で下肢が固まったまま、おそらくは余生の大半を送るはずの祖母は、一日何回ぐらい死にたいと心から願うのだろうか?日によっては、陽光が明るく差し込む朝から正午あたりまで、祖母はさめざめと泣き続ける。が、俺はそれを最悪だと思ったことはないぜ。最悪は稀にそれを目撃したからと一緒に連れ泣き、はたまたその時間偶然その場に居合わせなかった俺に対しあたかも己だけが知ったことのように得意げに語る下司野郎、つまりは俺の叔母のような存在だ。実の親が介護ベッドで横たわる部屋の隣室で、「人間もこないになったら終わりやなあ、私やったら死んだ方がましやわ」と番茶を啜りながら嘆息していた奴が、祖母の枕元で、「お母ちゃん、辛いなあ」と無知特有の自己満悦にも等しい涙を流すのだよ、一度もムツキを替えようともしたことがない己を省みることもなくね。朋輩(ニガ−)。陳腐な悲劇ってのは月並で特権的な語り手を作るんだってな。俺もそのお仲間か、だと?ha、ha、どっちでもいいさ、好きに決めてくれよ。但し、この俺なくしては、ばあちゃんは介護さえ受けられなかった身体だったってこと、YO、こいつに関しては尊大に語らしてもらうぜ、俺はこの件の権威なんだ。≪

 ≫昼下がりなど、祖母の様子を見に下りてゆく、すると、おばあちゃんにテレビを見てもらっていますと称して、手の空いた介護士が介護ベットを背にして低俗なワイドショーに見入っていたりする。…(中略)…俺のばあちゃんはヤンキー上がりのブス漫才師が出てる糞番組なんか見てないぜ。不倫だと?真実の恋に目覚める中年女たちだと?何故に低所得者層の抑圧された主婦向けに作られた風テン電波で祖母の脳を汚染するのだ?ばあちゃんがこれでガンコな汚れも落ちるのねと香りの粒入り洗剤を買ったり、今月はちょっぴりピンチだからとサラ金からカジュアルに十万円借りたりするか、fuck!祖母は捕まえる間もなく脳を通り過ぎてゆく映像と音の垂れ流しに五感を奪われているに違いないのだ。こんな時「すいませんが、その頭のおかしくなる番組、つまり頭のおかしいことに気付いていない人たちが喜んで観たがる番組を消してもらえますか?」と口に出す訳にもいかねえだろう?≪

 などなど、毒舌に継ぐ毒舌から見えてくるものは、今の時代の幸せ物語の<嘘臭さ>の正体である。