『生まれる森』 島本理生

 十二月だというのに、絶好の小春日和。 しかし朝寝坊をしてしまった。
 起きたのが9時。 最近は朝が暗いのと寒いので、6時ごろ目が覚めてもまたひと寝入りするので、起きるのが早くて7時、遅いときは8時ぐらいに起きている。 そのぶん夜寝るのは遅く、0時前後ぐらいまでひとり本を読んでいる。 山の家では南西の角の部屋に寝ているが、南向きの窓の障子に日が差していた。 その障子越しの光を見てこのお天気を無駄にしたくないとあわてて起きた。
 今日も自宅へ行き外仕事。外仕事というのはやってもやってもキリがなく、次から次仕事があるのである。
 明日から雨の予報なので、道具小屋の屋根のヤリ変えにかかる。 まず屋根板を剥がして行く。 木の性質なのだろうか、結構腐っているのもあればまだまだ使えそうなのもあるが、全部はがしていく。 概して北向きの屋根より、南向きの屋根の方が腐りが激しい。 濡れたり乾いたりすることを頻繁に繰り返しているからだろうか? 作業をしていて下地の防水アスファルトシートもところどころ破れてしまい、これも全部めくる。 以前山の家の外壁下地に使った防水シートがいくらか残っていたのでそれで新たに引きなおす。 ところが手動で叩きつけてステップルを打つ機械が食い込んで戻らなくなり、それを分解して組み立てなおしに小一時間ほど取られてしまう。 ホームセンターでタキロン波板を買ってきて、それをコーススレッドで止めていく。 軽トラックのラジオをかけて仕事をしていたので、この天気は明日の午前中までなんとかもちそうなので、棟のくの字形の押さえの笠は明日少し遠い店で買うことにして今日の作業終了とする。
 
 島本理生著 『生まれる森』を読む。 最近は若手、とくに二十代の女性作家の作品を読んでいるが、この作品だけは読んでいて最初から最後まである種の重苦しさと、主人公である私にどこか馴染めない違和感が続いた。 それは読了した後も続いていて、感想を書くのもどうしようかと思ったりしていたが、作品をよく理解出来たいなかったことに気がつく。 考えてみるよく練られた上で書かれていることに気がついた。 おじさん的な見方が作品を読み違えてさせていたのだろうか。
 日本の伝統的な私小説を読んで来ているので、<私>を主人公にして書かれている作品は、作者の思い入れされた分身と見てしまうというか、読んでしまう。 それがどうハチャメチャな生を歩もうと、社会からはみ出そうと、どこかには作者の肯定的な思い入れがあるもので、その背後にある種の甘えみたいなものであってもである。
 ここで描かれている<私>はこころを病んだ私であり、こころをなぜ病んだのか自分でもわからないままに日々を生きているまわりから見るとじつは<いや〜なわたくし>なのである。 
 この物語の中で、あきらかに相手から毛嫌いされているのに、その女性をストーカーしてしまっているいっけん優しそうな男が出てくる。 嫌いな面を指摘されてもそれも全部直すからなどと言う、そんなあんたが気持ち悪いのだ、嫌なのだと言ってもいっこうに分らない。 彼は自分がまったく見えていないのである。 この男を<私>はさとすのであるが、そのさとす<私>もその男と五十歩百歩の位置にいることを気が附いていない、そんなわたくしが<私>なのである。
 そんな私が、あまり親しくなかった女友達に、たまたま自分の暗い恋を打ち明ける。そのあまり親しくなかった友達の一風変わった家族、兄弟が彼女のまわりを包み始め、彼女は自分でも気がつかないまま変っていくのである。 作者も最後のあとがきで 「厳密には、この物語は恋愛小説とは言えないかもしれない」と冷静な目でみて、書いている。  さらに作者はこうも書いている、「だれかを救いたいと思うこと。その相手の手を放すか、それとも掴むかの一瞬の違いが恋愛の残酷さでもある」それにしてもまだ大学生の若さでこのようなこのような言葉を背景にした作品を書くとは空恐ろしいものがある。