「山猫」 ビスコンティ

 今日が冬至。 冬至、冬中、冬初め、と言うが、いよいよ明日か明後日あたりに寒気が入ってきそうである。 午後から車のタイヤを冬用に入れ替えて、これで何時雪が降ってきても備えは万全にした。

 古い映画であるが、今回神戸滞在中に「山猫」をイタリア語完全復元版で観た。
 もう現役を引退したアラン・ドロンがうら若い青年貴公子として登場しているルキーノ・ビィスコンティ監督中期の作品である。 以前にもBS放送化何かで一度見たことがあったが、あらためて大画面で見てみたいと思い出掛けた。 時間にして3時間を越える作品で最後の舞踏会の場面は、イタリアルネサンス期の絵画が映像の世界に写し替えられたようでため息が出るほど華麗で美しかった。
 オフはビィスコンティ作品ではこの作品の直後に作られ同じクラウディア・カルデナーレが出演していて、兄と妹の近親相姦を扱っている「熊座の淡き星影」がとくに好きである。
 さて、「山猫」だが、よく時代の変革の流れにのまれていく貴族の生き方を描いたて…などと喧伝されているが、今回はそれよりむしろ貴族の生き方の陳腐さ、退屈さみたいなものを画面から強く滲み出ているのを感じた。  その中で貴族のことをよく知る司祭が、あの人たちはわれわれ庶民とはまったく別の種類の人間だ、と貴族を前にしていた時とはまったく違う口調で答える印象深い場面があったが、当の貴族さえも飽き飽きしている退屈さというより様式化されたような日常みたいなものがさりげなくことのほか上手く描かれていた。 そこはやはりビスコンティが同じ貴族出身の監督だからこそ描けたのだろうと思うのだが、大きな邸宅に住み、綺麗な衣装を身に纏い、贅を尽くしたような食事をしていているから貴族ではなく、貴族という名にがんじがらめに縛り付けられながら、つまらないとか、退屈だとか思うことなく貴族をやっているからこそ彼らはまさに貴族なのだ。 だからこそよくNHK大河ドラマの中によくあるように、今の時代から見ればどういう変化があったのかすでに知っている視点で、われわれの知ったかぶりの視点で当時の時代のことを描いてみせる安っぽい嘘臭さからはビスコンティは逃れているのである。
 時代の流れというものは、それぞれの時代に生きていてそうそう見通せるものではない。少し前のバブルの時代にバブルの先を見通して行動出来ていた日本人がほとんどいなかったように・・・だ。 また、外側に居たからこそわれわれはオウムの信者の馬鹿臭さをいくらでも笑うこと出来るだろうし、誰もが今現在もわれわれこそはマトモな側に居ると思っているだろう。 しかし、じつはマトモだと思っている自分達の馬鹿馬鹿しさはなかなか見通せないものなのである。 しかし先の流れのことは分らないながら、マトモだと思っている目の前の自分達の馬鹿臭さに気が附いて飽き飽きしている人はいるのだけは間違いないのである。  
 バート・ランカスタ−演じる初老の主人公は、そんな貴族の一人なのである。それゆえ彼は孤独なのである。 またアラン・ドロン演じる甥の若い貴族は若さゆえまだそのような知恵はないが、その若さゆえ本能的に時代の流れを嗅ぎ取って行動しているのである。
 今から見ればそのような当時の時代うねりみたいなものを画面の背景に滑り込ませながら、知ったかぶりに時代を見抜いたように生きた嘘人間を描かないビスコンティは、やはりただの監督ではない。 
 オフの評価点 50点