『袋小路の男』 糸山秋子著

 午後から急に寒くなった。 上空に寒気が入ってきているのだろう。 しかし今のところまだ雪は降っていない。 これで等圧線が混み合い北西風が強まれば雪になるだろう。
 何だかんだと言いながら、ここのところずっと自宅へ行って外仕事をしている。 天候の悪いこの時期としては考えられないことだ。 この先することといえば先日切り倒した木々の枝を、太いものと細いものと切り分けて、太いものは来年の薪に細いものはその内庭の隅で燃やしてしまうだけになった。 これらの作業は雪が消えた来年仕事と思っていたが、曇りだが雨が降っていないので、これはこれはと今日その作業に手がけることにした。 まだ生木に近いのでチェーンソオの刃にあらかじめ丹念にヤスリを入れてから作業をした。 午後からは一時間ほどもしないうちにポツポツと雨が来た。  
 軽トラックの荷台に山で燃やす薪を積んでいたので、濡らすまいと作業を中止して山へ帰った。 車は昨日冬タイヤに取り替えているので、走ると大きな音がする。 でも以前のスノータイヤやスパイクタイヤのことを思えばスタッドレスタイヤはゴムが柔らかいので音はまだ小さい方であるし、カーブを切る時のハンドルもそれほど重くない。
 糸山秋子の『袋小路の男』を読む。 少し前に彼女の『海の恋人』を読んでガッカリしていたが、新聞の今年の三冊で選んでいる評論家がいてもう一冊ぐらい読んで評価してみようと借りてきた。
 この作品でも生涯の意中の人と決めた相手と、友達以上恋人未満の関係を、何時か身体で結びつくことを思いいながらただただ清く愛し続けるはなしである。 お前はどこまでも大人になりきらないつもりか、などとぼやきながら読んでいたが、途中から、うん?となった。 相手は作家を目指して社会的にはいわば誰でもない立場のままずっと雑誌に投稿し続けている男。 うん?うん?この男を読みようによっては**ともとることもできるよなぁ〜と思い始める。
 相手はとにかく袋小路に住む男である、いつも女の影やそのものがちらついている、彼女を待たせてビリヤードに熱中、酒と薬でベランダから飛び降りる男、そして俺はダメなヤツと泣く・・・うんぬん。この身勝手さこそ・・・そしてそんなどうしょうもない男に身体を触れることなくただただ相手を永遠の男と信じたままマゾヒスティックに十数年も一途に純愛する女。
 この本は三つの物語が納められている。 表題作と「小田切孝の言い分」と「アーリオ オーリオ」。 小田切孝というのは袋小路の男の名前であり、第二作目はいわば一作目の後日の話。 読み終えてから巻頭に取り上げた言葉がたまたま目に入った。作者がどこかの著作から引いて来る巻頭の言葉などたいていは本編を読むと同時に忘れてしまうものだが・・・

 ≫「女に対してすることは三つしかないのよ」そうクレアはある時言った。「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ」  ロレンス・ダレル「ジュステーヌ」≪

 なるほど、なるほど、そうかそうか、やはりアナロジーされているわけだ。 この場合は作者は女性だから男を<文学>と見なせばよいのか、と・・・そうなると男=文学にあこまでも純粋に恋い焦がれているいるおかしな女という設定も納得、納得。 この凡庸な作品が二重写しで少し色合いが違って見えてきた。  
 だとすると先に読んだ『海の恋人』の三億の宝くじに当ったおかしな恋人の男の様相も少し違って見えてくるはずだなぁ・・・と思い直す。