今年の映画三本

 雪や雨の日と、晴れる日と交互に来ている。 今日晴れる日だったが午後から急激に寒くなった。
 昨日の文学の今年の三冊に続いて、今年の映画の三本も選んでみた。
 オフはどちらかと言えば邦画をあまり見ないほうなので、見た本数が少ない。 そんなこともあって邦画はすんなり決まった。
 まずは「珈琲時光」。
 この作品はの監督は侯孝賢で彼は中国人なので厳密に言えば邦画ではないかもしれないが、描かれている舞台は日本だし、出演している俳優もほとんど日本人だし、映画の中では日本語が話されている。 よって邦画としても良いだろう。 小津安二郎のオマージュとして作られた作品だが、見事にその役割を果たしていて、現在の日本の親子の関係をを的確に写し取っていた。 日本における現在の状況を、男女の関係というかその結びつき、その関係の深度、その距離の度合いの濃淡を映像の中で表現していて、見事としか言いようがない。
 続いて 「誰も知らない」 是枝裕和監督の第四作目。 
 演出は台本は渡さずに、その場ごとにシーン設定と台詞を伝えていく独自の手法をとり、それは極力ありのままの姿に迫るためのひとつのやり方であり、それがこの作品では見事に成功していた。 
 母親に置き去りにされた戸籍もない、もちろん就学もしていない4人の子どもたちが、大人たちに知られることなく、兄妹たちだけで生きていく姿を淡々と描いている。 
 「ハナとアリス」岩井俊二監督作品。
 これは上の二作に比べると少し評価は下がるが・・・大人の女に成長していく、男女のセックスの関係を知る前の微妙な時期の少女。この時期の女を描く岩井の映像は息を呑むほど繊細で美しい。
 以上がオフの今年の邦画の三本。

 洋画では、「エレファント」
 数年前、アメリカのハイスクールで銃を乱射して多数の死傷者を出した有名なあのコロンバイン事件を取り上げている。現役の高校生を集め、その本人達の名前で出演させ、彼等自身の今の問題やテーマをそのまま映像の中へ放り込み、それを映し出すことで事件を再構成し、何が起きたのかという本当のことに迫ろうとした。 また一方で、映像の中で何度か同じ場面を角度を変えて、あるいは時間を戻して映し出す個所があった。 微妙な細部にこだわる感覚、友達同士であろうとこころの向いている方向がズレている、上手く行かない些細なイライラ、あるいは全然解かっていない大人との倫理観のズレ・・・そういうシーンを淡々と重ねて、重ねていく・・・
 「ミステックリバー」 俳優としても名の知れたクリントンイーストウッド監督作品。
 オフにはブッシュ大統領が再選された今、この映画はいっそう印象深く思い出される。
 娘を犯された上殺された父親が犯人と思った古い友人を殺害して、川に流す。まさにミスティックな殺人であり、川なのだが、その血に濡れた手を、家族(国民)を守るためならあなたはどんな罪(原罪)でも引きうけ、その罪に目をつぶり平然とする男を演じる勇気を持ちなさいと妻に説得される。 最後に星条旗が振られるパレードの席におもむろに現れたダーティなヒーローのサングラス姿がことの外印象深く思い出される。
 「父、帰る」 この作品の評は最近日記で書いたので省く。
 本来ならラース・フォン・トリア−監督の「ドックビル」を選びたい所だが。この作品をまだ理解し切れていない。もう一度ビデオででも見てみた上で評価したいと思っている。 ただ最後の場面で二コール・キッドマンの扮する娘とマフィアのボスの父親との会話があったが、やはり映画なのだからあのような説明的な会話は頂けない、映像の中で表現されるべきだと思うのでこの映画の評価を下げたい。

 総括するならば、自分が正義なら相手は悪であるという、単純で誰でも分るような二分割で世界を括ろうとする動きが現実世界では進んでいる。 悪巧みや陰謀は罰せられ、邪悪な人間は正義の力の前に必ず滅ぶ。 きちんとした始まりがあり、それに応じた結末もある、という括りが漠然とした不安の中で現実を支配しようとしている  しかし、物事はけっして単純でも明瞭でもないし、始まりも終わりもどこまでも明確ではない、それが私たちの生きる現実の世界の姿である。 そこでそのような姿の現実により密着することで真実に近づくしかない・・・という映像をあえて選んでいる。