『十一月の少女』

 ゆっくり走る夜のローカル線の車窓からは、田植えを終えて水を張った田圃が光りに浮かび上がる。
 列車の進行と共に通り過ぎる家々が、あたかも水を張った田圃に浮かんでいるように見えるが、それが夢の中のようにつぎからつぎ闇の中へ消えていく。 昨夜、九時ごろ神戸から帰ってきた。

 出かける前は庭の花の主役はたわわに咲いていたオオデマリだったが、花は散って芝庭に白く積っていた。 舞台は替わり今はヤマボウシが静かに咲いている。

 例によって帰って来た一日は忙しい。 朝飯を食べ、預けてあるマロクンを引き取りに行く。 その途中修理をお願いしておいた草刈機を貰い受けにK君宅へ立ち寄り、ハワイコナ珈琲をごちそうになる。
 誰かがハワイへ行ったお土産に貰ったものだったが、コナ珈琲というから粉になった珈琲かと思ったよ、とアホなことを言っているK君は、技術屋だけにエンジンをオーバーホールして綺麗に掃除してくれる。 コナ珈琲は酸味は薄いが、弱い苦味と甘みが際立っている。

 母親と恒例の墓参りに出かけた後、久しぶりにマロクンと散歩に行き、その後山の家へ移動する。
 昼飯を食べ、食料の買い出しに行き、山の家に掃除機をかける。 ここのところ温かくなって来たので冬越ししていたカメムシが出てきたが、留守をしていたので外へ出れなかったのであちらこちらに死骸となって転がっていた。 ほんの少し昼寝した後、マロクンを連れて近くの竹薮へ竹の子採りに出かける。 今は部落に住んでいない人の竹薮だが、程々のものを一本だけ拝借してきて鍋で茹でた。 昆布と味噌煮にして食べるのは明日だ。
 夕飯は当地方で採れた新ジャガと新タマネギ、シイタケ、メンマ、糸コンで肉じゃがをする。 最近はジャガイモはメイクイーンが多く男爵イモがあまり見かけないが、今日買ってきたのは大きな男爵イモ

 森内俊雄著の『十一月の少女』を読んだ。 この作者の作品を読むのは初めてである。

 ≫はるかな気持ちでいました。はるかな思いがわかりますか?かぞえきれない長いながい時間のむこうからつづいてきて、水を飲み終わり飛行船を見上げている、いま、があって、それはこれから先のほうへ、うんと遠くつづいていて、やっぱりかぞえきれないほど長くつづき、思わずぼんやりしてしまう、たったいまの気持ちのことです≪

 プロローグの中に以上のように書かれている箇所があった。
 だいたい、はるかな時とか、永遠などということに思いをはせるような体質の人は宗教的な、しかもそれはどちらかといえば体系的な一神教的な宗教であるが、そんな体質というか、資質があるものだ、とつねづね思っていたが、この森内氏もどうやらそのような人のようだ。

 ≫いつかどこか一億光年のかなたで、自分はこのヒマラヤ杉の梢に雲が流れているのを見た。朝空に星が一つ消え残って光っている。その星に自分が立っていて、こちらを見ている。その自分が今ここにいる。もはや脇野は立っていられずベンチに座った。
 あれは、と脇野は考えた。十三歳であっただろうか。いやフミューと同じ十一歳の夏の午後だった。その想念は閃くように突然おとずれてきた。 
 自分は自分の身体を身体として縁取り縁取られるかたちに沿って、限られたかたちで存在しているのだが、まさにその限られたところで、限りないものへじかに触れ、触れられているのではないか、そのとき、十一歳に感電したような衝撃が走った。
 そしてその衝撃は瞬時にして去ったが、想念の記憶は確実に残った。彼はひどく自分を恐れた。この自分の身体は自分のものでありながら自分ではない、何か一つのことを教え告げられている場所ではあるまいか≪

 永遠とか、何か超越的な存在を感じ取るような宗教的な体験とでも呼ぶべきものだろうが・・・その時のそれは本人にすれば一種の恍惚とした体験なんだろうと思われるが・・・もともとそのような資質にないオフには、所詮縁のない体験と思えるのであるが、そのような実感をベースに持って書かれる作品というものに対して体質的に強い違和感を覚えるだけでなく、これまでむしろ反感や反発を覚えてきたものである。それ故にそのような匂いのしそうな作品はなるべくなら読むのを避けてきた。この森内氏の作品もその意味で、この先読むことはまずないだろうと思える。