{古民家} 団塊の世代の定年後

 数日前のネットのニュースで、かって漫才師横山やすしのマネジャーをやった吉本興業の役員が、団塊の世代が定年を迎えるのに向けて応援や生き方を提言する雑誌を発行する、とあった。 このことに限らず世は団塊の世代が勤めから開放される数年先を見こしていろんな動きが出ている。 
 
 今年の正月過ぎに読んだ堺屋太一著の『わがままのすすめ』でも、団塊の世代に向けて、
 さあ君たちが主役の本番だよ、こらからは経済的、つまりこっちが有利とかコスト計算をすてて、世間が言うこととか、自分の未来からも自由になって、事業や会社のためでなく自分が本当にやりたいことをやろう、つまり、わがままのすすめを書いていた。
 
 たしかに団塊の世代は定年直前にリストラされたり、意に合わない出向に無理矢理出されたりしている人々も多数いるが、長年高度成長期の中でコツコツ勤め上げ、ほどほど蓄財してかなりリッチになっている層もかなりいる。 これまで会社人間として稼いで来て溜め込んできた蓄財があるだろうし、さらに退職金の額も大きい人も少なくないのだ。 それをがっちり手元に溜め込んで、今後の生活を年金で地味に暮らそうと思っている人もあるだろう。 一方でこれまでは、本当に自分のやりたいことをやってきた訳ではなく、生活のため人、家族のために頑張ってきた。 上や会社の命ずることを、つまり他人の命を為しとげて来たわけだ。 しかし、定年と同時にそんな縛りから開放され、これからは自分のためだけに、本当に自分が自分に命じたやりたいことだけをやって生きていくぞ、と密かに思っている人もあるだろう。
 団塊の世代はどちらかといえば、それまでの日本人がやってきたまわりに配慮し、上の人を立てた生き方の縛りから外れて、戦後的、消費的、マイホーム的、合理的生活スタイルのモデルを築き上げてきたトップバッターの世代である。 その後の世代はそれらの生き方のモデルを見ながら、批判的にしろ、発展的にしろ受け継いだ世代である。
 団塊世代は一つの流れに縛られるのを嫌う世代でもある。 それぞれが主張を持ち、スタイルを持ち、こだわりたがる世代である。 それに自分達が戦後の生き方をトップバッターとして切り開いてきたという自負もあるだろう。
 定年後は、前の世代と同じように夫婦で世界や国内へ旅行するというおとなしい組から、この際比較的物価が安い海外へ移住までしてしまおうなどと考えている組もまあまあ出て来るだろう。 さらに自分達の趣味を中心に据えた生活を思い描いている人たちが思いのほか沢山出てくるだろう。
 それらに向けて、各分野でかなり突っ込んだ情報を載せている雑誌や本が売り出されている。
 またメディアもそのような趣味が半端でなく高じた人々のこだわりの暮らし、生き方などを盛んに取り上げたりしている。
 銀行なども、逆住宅ローンといって、今の持ち家などを、死んでから子供達が処分するくらいなら、それを担保にして親が生きているうちにその分を年金のように支払っていこうというプランなども組んでいるという。 そのような行動は一つ前の世代では、思っていてもなかなか実行できなかったろう。
 働いて溜め込んだ資金を寝かせないで、残りの人生をエンジョイするために使いなさい・・・と甘く誘惑する声が各方面で高くなっている。 銀行に限らず、いろんな業種の企業はさまざまなプランを用意して、彼らをしていかに財布を開かせるか、をこれからのビジネスチャンスと捉えて狙いをつけている。

 そんな大きな流れの中に、オフが今取り付かれ病のようになっている<古民家の再生>へのかかわりもも位置づけられるだろう。
 世の流れに踊らされていないとも限らない、と冷静に頭の隅では思っているのだが・・・ 今年の冬、堺屋氏の『わがままのすすめ』の読後感想日記で以下のように書い
ていた。


 ≫そう言えばオフも本を読んだり、映画を見たりする以外に一つ二つそれをしていても大して疲れないことはあるのだ。 最近はそれについて漠然と、如何しようかなぁ、などと思っていたが、おだてられてここらでもう一度腰を上げて見るかなぁという風に思えて来たから、それは面白いことなのか、困ったことなのか・・・
 堺屋氏は最後に古今東西の六十歳を過ぎてからコトを為した人々の例を幾つも上げたうえで、有利とか不利などと考えることから離れなさいと書いている。 が、ことはそうは簡単にはいかないものだ。 まず何をやるにしても、元手がかかる。 その元手がせいぜい小遣い銭程度の事ならそれも良いが、元手が掛るならそれはそれで儲けはなくても、せめて懸けた元手だけでも取りたいと考えるのはしごく当たり前のことだと思う。 また儲けを度外視しても、どこかでお金という価値が絡まないことには人は真剣にはなれるものではない。 たいていの人はそこでハタと立ち止まってしまう。 そうこうしているうちに時間だけはどんどん経っていってしまい、いつのまにか年を食い、人はそのことを理由に諦めてしまう。
 それにしても今・・・この年で・・・しばらく考えてみなければ・・・と思ったりしている自分がいることだけはたしかだ。 妙なところで妙な人に後ろから背中を押されてしまったなぁ、と一人苦笑したりしている。≪