阿部和重著 『グランド・フィナーレ』

 山の家のまわりの地形は東だけが開いたコの字型になっている。 当地方では東の風というのは台風が南側を通過した時ぐらいしか吹かないので、ぜんたいに風当たりが弱い。
 山の家から見て北側に小さな尾根が東向いて延びている。 南風が吹くときは、その尾根の木々が正面からの南風を受けて葉が裏返って白く見え、ゴォーゴォーという風の音も聞こえてくる。 それを見たり聞いたりして、はじめて今日は南風が強いなぁと思うわけだ。
 今日も木々が裏がえって白くなっていた。 つまり午前中フェーン現象になり気温が上がっのだったが、ここのところ湿度が高い日が多かったので、乾燥した南風がかえって気持ちよく感じれた。 お昼過ぎにはまた雨、その後急に涼しくなった。

 久しぶりにレバニラをつくった。 スーパーに鮮度の良い豚レバーの塊があって買ってきた。
 薄く小さく切って冷水に晒すが、新鮮なせいか血が滲んで出て水が濁ったりしない。
 レバーは醤油と味醂胡麻油にトウバンジャを溶いたものに一時間ほど漬け込み、片栗粉をまぶしてまず油で揚げる。 ニンニクを弱火で炒め、さらにショウガ、シイタケ、ニラ、モヤシを強火でさっと炒め、揚げたレバーも加えざっくり混ぜて味醂醤油オイスターソースで味を調え出来上がり。
 山の家では中古だが業務用のガスレンジを使っている。 業務用ガスレンジはレンジの口が二重の輪になっていて火力が強い。 普段は外側のガスの口はめったに使わないが、強火で野菜をさっと炒める中華の時はだけは使う。 野菜から水が出ないので、べとつかず美味しく仕上がるからだ。
 

 阿部和重著の『グランド・フィナーレ』を読んだ。
 前回の芥川賞受賞作品である。 芥川賞作品は新刊コーナーに並んだ時借りないと、順番待ちの人が出て当分の間読めなくなる。 若手作家登場と騒がれた綿谷リサの『蹴りたい背中』などはいまだに貸し出し中が続いているのか一般図書のコーナーでも見かけない。 娘や息子住む東京や横浜の図書館では芥川賞作品は順番待ちが100人以上待ちは当り前だそうだ。 一時、人気のある作品を何冊も図書館が購入するのはけしからん、と作家や出版社などが抗議していたことがあった。 それを受けて図書館も以前のように一冊しか置かなくなったのだろうと思う。 今回の芥川賞も少し前に決まったニュースがあったから、『グランド・フィナーレ』もこちらの田舎の図書館でも半年以上読めなかった計算になるのだ。
 本の帯には芥川賞受賞と大きく書き、<文学がようやく阿部和重に追いついた>と大げさなコピーが書かれている。 これまでに阿部和重はいろんな賞もとり出版界から若手の作家として有望視されている。 阿部はたしかに今迄にいなかったタイプの作家ともいえるが、どうしたものかオフ好みの作家ではない。 今回の作品も悪い作品ではないと思うが、やはり好きではないなぁ・・・という感想が読んでいて出てきてしまう。
 話は映像関係の学校を出て、教育映画会社に勤め助監督から監督になった男。 恋人とできちゃった結婚し娘が生まれ、一人娘を溺愛している。 ごくごく普通の顔をした男だったが、その顔の下にもう一つの顔があって、それはロリ−タ・コンプレックスという顔だった。 娘のものを含め自前で撮った合膨大なコレクションが偶然妻にみつかり、それを巡ってもみ合った拍子に運悪く妻の骨にひびが入り、たちまちドメステック・バイオレンスとして訴訟される。 結局妻とは離婚、娘と会うことも禁じられた男の・・・話は男のその後のこと、である。
 
 ≫決して愉しいものではない打ち明け話を長々とここまで続けてきたわたしには、どこかで解せない気分があった。聞き手のIが一貫して示す、冷静に徴収をこなす検察官みたいな態度にも、ちょっとした困惑を感じていたが、それとは別にわたしは、おのれの過去を恰も他人事のごとくすらすら話せている自己自身に対する違和感を拭えずにいた。・・・・・・言葉を口にするたびわたしは、不定形な現実や時間の経過に一つ一つ区切りを付けているような気にもなり、自分がぜんぶ終わったことにしたがっているらしいと悟りかけてしまった≪
 
 彼は嘘もなく一つ一つを語り終え・・・彼は変りつつあるのだろうか・・・

 ≫わたしはIが、この手の、双方の実生活に深く立ち入ったやりとりは友人同士であってもしたがらないタイプの人間だと認識していたので、本日の彼女の言動はなおさら意外に映った。
 あるいはそれは単に、わたしこそ他者に無関心なために、彼女を自分と同一視していただけでしかなく、I自身は昔から「みんな」に対し、腹を割った対話を求めているということなのだろうか。だとすればわたしは、Iという人の性格を完全に捉え損なっていたわけであり、また彼女のみに限らず、Yや伊尻や紗央里を含むあらゆる知り合いや家族たちの生の声にも耳を傾けようとはせずに、こちらが勝手に仮構したおのおのの人物像ばかりに視線の焦点を合わせて、適度にコミュニケーションした気になっていただけなのだろうか。しかし誰もが多かれ少なかれ、そんなふうにしか他人とは触れ合えぬものではないか、などと、わたしはここで開き直ってしまうことも出来るだろうが、・・・≪

 その後、彼は田舎に移り、ある流れで小学六年生の二人の少女と出会う。