『ナターシャ』

 数ヶ月ぶりで山の家での朝を迎えた。 
 昨夜夜半過ぎ激しい雨が降っていたが、朝には晴れていた。 黄砂で空は曇り日中も時々雨が降る不安定な天気。 お昼前マロ君をつれて旧山田村の方面へ散歩に出るが、途中で突然のわか雨に会う。 近道しようと山の斜面を登ったりして帰ったが、家へ着いた頃はズボンはもちろんパンツまでびしょ濡れになってしまっていた。 今住んでいる八尾町も山田村もなくなり、平成の大合併でみんな富山市となってしまった。 八尾町は町長なども合併に後ろ向きであったが、住民投票の結果賛成派が六割ほどいて合併の流れに逆らえなかった。 合併賛成派は年令が下がるほど圧倒的に多かったと言われている。

 
 デイヴィッド・ベズモ−ズギス著の『ナターシャ』を読んだ。
 作者は旧ソ連ラトビア生まれで、子供の頃ユダヤ人の両親に連れられてカナダへ移住した若いロシア系作家である。
 七篇の短編集が納められている。 旧ソ連から移住したユダヤ人両親の苦労の側で育っていった作者は、新天地での微妙な軋轢から生まれる生活の齟齬をみずみずしい感性で見つめながら描いている。 人々は何もかも捨てて、言葉も分らない見ず知らずの国へやってくるのである。
 なにもわからぬ新天地でいちから生活をスタートさせる言いようのない不安、そこにははったりもあるが、自分でもいったい何が不注意だったのか分らないままやってしまった、とんでもない出来事が悲惨でみじめな結末を迎えたりする。
 同じ新潮社のクレスト文庫から出ているインド系作家ジュンバ・ラリヒの『その名にちなんで』はインドからアメリカへ移民した両親の元で育つ子弟の視点でだったが、ベズモ−ズキスは旧ソ連ラトビアからカナダへ移住したユダヤ系である、両方の文化を見ることからくる悲哀で現実へ鋭く切り込んでいる。 日本でも在日朝鮮人の二世三世の作家が多数いて、良い作品を残しているが、同じように世界各地で移民の二世や子弟たちが、その存在の曖昧さからだろうかすぐれた作家に育っている。


 やはりこの中では、<十六のとき、私はたいていいつもハイになっていた>で始まる『ナターシャ』が圧巻である。
 モスクワからジーナという女が、叔父と再婚するためやってくる。  叔父という人はいわゆるいい人間だった。 よく働くし、博識家で、本や新聞などもよく読むが、裕福ではなく、またなりそうもない人だった。 いきなりつかつかとまるでよく知っているところへ来たような様子で我が家へ入って来た女がジーナである。 ジーナはナターシャと言う14歳の娘を連れでやってきた。

 「だったらどうだっていうのよ?年なんてべつに意味ないでしょ。あたしはもうさんざんやっているよ。あんたがしたいんなら、寝てあげてもいいよ」 といきなりナターシャが言う。

 しかし、このナターシャよりジーナという女が怖い。 以前さんざん振り回された女に、どこか似ているような気がするのだが・・・

 「叔父さんはいい人だよ
 「ほんとにお気の毒。あの人に、人生めちゃくちゃにされちゃうよ。
 「おじさんの人生がこれ以上悪くなるというのは、想像できないな。
 「あの人ならもっと悪くしちゃうよ。
 「自分の母親だろう。
 「あの人は娼婦よ。あれするとき二人がどんな声を上げるか知りたい?

 とまあ、こんなふうに会話は続いていくが・・・
 最後にナターシャは叔父さんに何をしたと思う?
 そうそうそうなんだよ。でも、それは何のために?・・・