『ベジタブルハイツ物語』

 昨夜から寝泊りを山の家へ移す。
 神戸へ行く前にはまだ土間のツバメが子育て真っ最中だったが、戻ってきてみると巣は空っぽだった。 多分、親の餌をねだっていた雛たちは無事巣立ったのだと思うが、途中から人が住まなくなった家での子育てはツバメにとってもかなり不安だったろうと思う。 ツバメは人の出入りのない家での子育てはまずしないからだ。 子育て中のツバメの雛は、猫、蛇、カラスなどに狙われている。 猫、蛇は巣を作る場所が天井であることでその被害をだいたい防げるが、カラスも同じように飛ぶ鳥なので進入されて襲われたら防ぎようがない。 さいわいカラスは人間を極端に恐れて、その住居の中へ入ることはまずない。 多分ずっと昔、あるツバメが人家の天井に巣を造り、そこで子育てをしたのが成功を収めた。 そのことをDNAに刻み込んだ種類のツバメがその後繁栄することになったのだろう。
 今回の子育てが成功したかいなかは・・・多分この先メスが新しく若いオスを選んで(前に子育てした同じ疲れたオスとは再び子育てはしない)もう一度子育てをすると思うが、同じようにわが家の土間の天井をふたたび選べば、成功していたと思ってよいのだろう。

 

 藤野千夜著『ベジタブルハイツ物語』を読んだ。
 この人は現代の都会に住むどこにでもいるような目立たない女性の、身近な日常を主に書いている作家である。 作品はどちらかと言えばライトノベルとでも呼ぶべき内容だが、ストーリィで現代を追かけているでけではなく、そんな都会の今を生きる女性たちの一抹の淋しさや、尾を引くようなやるせなさを上手に文章に定着させて描く作家である。


 さやかは、ふん、と鼻を鳴らすとベッドに横たわり、学校の友だちに携帯メールを二つ打ってから、今度は海野かつ子のことを考えはじめた。
 自分は本当は、彼女に嫉妬しているのだろうか。
 一人だけうまいことやっちゃって、
 とか、
 このこのこの―、
 とか、
 憎いよ―、
 とか、
 私のこともどこかに引っ張ってよ、
 とか。
 たぶんそんなことはない気がした。それこそアパートの部屋に野菜の名前をつけようとか言い出したころなら、そういうこともあったかもしれないけど、少なくとも今はそんなふうには考えない。
 だいいち、あれはあれで大変そうだし。
 誰がどんなふうにハッピーかなんて、どうせ本人にしかわからないことだし。
 明日はみんなどうなるのかわからないんだし。


 「山本さん」
 とうしろから人が追いすがって来た。
 見ると高校の同級生、全然親しくなかった池田さんだったので、
 「あ、池田さん」
 と大して気もなく応じてから、慌ててもう一度よく顔を見た。
 セミロングの無難な黒髪にサイケ柄のブラウスを着た面長な池田さんは、自信ありげにニヤッと笑っている。
 目。
 目がふたえだ。
 高校時代にも、先月予備校内でたまたま会ったときにも、間違いなくひとえだったと思うけど。 
 「わかる?」
 「わかる―。いいじゃん、いいじゃん」
 「でしょう」
 「どこで?いくら?」
 ちゃんと説明してくれた池田さんに、へえ、そうなんだ、いいな―、と答えると、じゃあ、ちょっと急ぐから、と満足そうな笑みを残して、彼女は膝上げの創作ダンスのような軽やかな足取りで先を行った。
 といっても信号待ちで前が詰まっているので、そう目ざましくは進まない。
むしろさやかのほうが、追いつかないように気をつかって少し歩みをゆるめ、すぐ人の壁に当って足を止めた。池田さんも三メートルくらい先のところで、それ以上の前進はあきらめたようだ。首筋にかかった髪を得意気に左手で払って、うしろの男の子によけられている。
 高校のときから、池田さんは本当に全然親しい相手ではなかった。というか、むしろ苦手な感じ、父親が在京キー局のディレクターで、口にすることは、今度局まで見学に行かない? と、この人パパの番組に出たことある、の二つしかないと言われ、クラスの人気者だったり一転していじめられっ子だっ
たり、なかなか浮き沈みも激しくしていたようだけど、一貫していたのは自分自分自分自分と全身で主張しているような我の強さで、さやかはどんなときも彼女に極力近づかないように気をつけていたのだった。
 だからなのだろうか。
 彼女のプチ変身ぶりについて、よかったとかよくなかったとか、
 似合っていたとか似合っていなかったとか、
 もう少しふたえの幅は狭くてもよかったんじゃないかとか、
 テレビで見たことのあるあの針金みたいのをぐいっと押しつけられたんだろうか、
 なにもそんなことに自分から触れ回らなくてもとか、
 やっぱり心から嬉しいのだろうかとか、
 無理にポジティブでいく作戦だろうかとか、
 もちろん本人さえよけえばなんでもOKだけど、とか、
 うーん、ここは私も負けずにチャレンジ!とか、
 いろいろ考えるよりもまず、池田さん、そこを直したら可愛くなると思っていたんだ。とさやかはしみじみ思った。
 スクランブル交差点の信号がかわり、彼女の細い背中は、ようやく人波にまぎれて見えなくなる。
 あとで性根の曲がった友人たちが、口々になにを言うのかわかる気がした(もちろん、さやかも言うけれども)