『サージウスの死神』
入梅が遅れているという。 6月にはいってから雨の日が少ないという。
山の家の横の川も水が流れているのかいないのか分らないほどである。 今のところ飲み水や生活用水は何とか流れ込んでいるので困ってはいないが・・・。 週間天気予報でもこれから晴れか曇りで傘のマークが見当たらない。 山の田圃の稲は青々としているが、一部の田に水がない状態である。
このまま空梅雨で雨が降らない日が続けば、山間部で水不足の声も出てくるだろう。
桑の実がたわに実っていて赤色から黒色く色づいてきた。 マロ君との散歩の途中手を伸ばして一握り採っては口に入れたりしているが、口の中に少し甘酸っぱい懐かしい味がひろがる。 この地は江戸時代から絹や和紙の生産が盛んで、町場の商人たちが江戸の文化を残したのが風の盆のおわら踊りとして残っている。 山間部では当時その原料となったミツマタや桑の木が野生化して今もあちらこちらに生えている。
佐藤憲胤(のりかず)著の『サージウスの死神』を読んだ。
二十代の新人作家の作品であるが、若者特有の気負いと自負が全編をつらぬいている。
サージウスというのは、そのような名前の赤色の宝石のことである。
そのサージウスには雄石と雌石があり、その中でも雄でもなく雌でもない石は縁起が悪いとされている。 あえてその縁起が悪い石を指に埋めこんだギャンブラーが物語の主人公である。 彼はもともとギャンブラーなどという曖昧な存在ではなく、デザイン会社に勤めるデザイナーであったが、ある日たまたまビルの屋上から飛び降り自殺した男の血を浴びた後、極限の状態で数字が頭の中の混乱から浮かび上がるようになり、ギャンブラーの道を歩き始めた、というなんだかよく分らない経歴の男である。 運さえもビジネスだ、と訳の分からないことを言って次々に男の周辺にいた人々が、ギャンブルの渦に巻き込まれるように死んでいく。
ギャンブル、つまり賭け事をとことん追及していくと、そこに必然的に死神が出てくる。 ニーチェなどを持ち出して<偶然や死を通過した痕跡を人間はカネによってだけ見ることができる>というわかったような、わからないことをテーマに書いている小説なのである。
たしかにサイコロの出目は永遠に人にとっては謎である。
その謎に向かって人は手にした富あるいは価値、具体的にはカネを投機して、さらなるカネを手にしたり、破滅している。 しかしあらかじめ出目が分る人にとってギャンブルはすでにギャンブルではありえないはずである。 それを当てるということは、いつてみれば日々行われているつまらない労働とさして変わりない行為だとも思えるのだが・・・ 大仰だが中身が薄っぺらい、作者はむしろミステリー派作家に転向したほうがその才能が輝くように思う。