『炉辺夜話』

 昨夜から今日にかけてまとまった雨が降った。 とくに午後4時前頃からやや激しく降った。
 今年は先月から水不足気味だったので、山村の農家の人々はホッとしているだろう。

 夜に入って半袖では少し涼しいかなぁ・・・今日6月史上最高の気温を記録したらしい東京の人々には申し訳ないくらいの涼しさだ。
 少ない情報の中で丹波の三軒の古民家について考えることほぼ考えつくしたと思う。 後は来週現地へ行って実際に建物を見ることに尽きる。 それまでの期間、お見合いの前のような落ち着かない時間を過ごすことになりそうだ。 


 宮本常一著 『炉辺夜話(日本人のくらしと文化)』を読んだ。
 珍しく小説以外のものをきちんと読んだ。 宮本常一は全国各地をくまなく歩きまわった有名な民俗学者であるが、個人的には『忘れられた日本人』の印象が強い。  民俗学の著書を少しは読んでいるが、『忘れられた日本人』は柳田國男編の『遠野物語』とならんで強い印象でもって残っている作品で、民俗学に留まらず日本の名著として残る作品だと思っている。
 この『炉辺夜話』は宮本がこれまでおこなった六回の講演を文章にしたものであって、とても読みやすい。 それは話している話の中身が、宮本が現場をまわり、頭の中で何度も何度も考えた後、まわりの諸々の事柄と関連付けられた上できちんと整理されているからで、わかりやすいだけでなくちょっとしたエピソードが強い説得力を持って迫ってくる。
 彼には足で歩いて、それぞれの現場で次々に起きてくる疑問をぶつけ、現地の人と話し合った上で、さらに考え抜いて出した結論のその整合性、その説得力はうならざるを得ない。
 研究室の机上で考えた理屈は、それがどんなに本当らしく思えても現場へ出て、ふんと現場の人に一蹴されることがままあるのだ。 ものごとの本当のところは、それだけ見ていては分らないことが多く、意外と関係がないと思えるその周辺の事情や、歴史的に見てもう終わっていると思われる前の時代の忌避などが尾を引いていることがあるのだ。 民俗のその深層に流れているものを探っていくのが日本民俗学の仕事である。

 先週の朝日新聞梅原猛が、日本人が道徳的に退廃した今こそ宗教的な道徳、とくに日本人が馴染んできた仏教の道徳を教えることが大切だという持論を力説していた。
 たしかに最近、子供が被害者だったり、逆に加害者だったりする痛ましい事件が日々報道されている。 しかし、人々が今の時代の中で生きているその底辺の思想を離れて、どのような素晴らしい道徳を説いてもそれは決して人々の耳に届かないし、心の中には根付かないものだと思う。 それを力説すれば力説するほどお互いの心のうちに虚しいものがうまれ、人々をしてーー教える側も教えられる側も、大人も子供もともにーー白々としたものを感じ合うだけだろうと思う。
 今は西洋近代主義の人間中心の個人主義とマネー資本主義のますます進行している時代である。 
 その中でその時代の人々の心を掴む、その時代から生まれる道徳を見付け出す、あるいは生み出していくしかないのだと思う。
 梅原の訴えにはそうだそうだという賛同者はいても、所詮これまで繰り返された来た、宗教ユートピアイデオロギーで世界を切り新しい社会や生き方を論ずる知識人の掛け声程度の広がりしかならないと思う。 宮本常一のような地道な仕事の大切さを、梅原の主張を読んでいてあらためて思う。
 百年、二百年、三百年して残るのは宮本のしてきた仕事であり、決して梅原の仕事ではないと思う。