『ナラタージュ』

 昨夜遅くから雨がジャジャ降りになり、夜中中降っていたが朝になって上がった。 久しぶりのまとまった雨で、木々も水を含んで重くなったか枝をダラリと垂らしている。 午前中兵庫、京都、岡山あたりに山間部にまだ良い物件があるのではないかと、リンク集を次から次へと隈なく捜しまくる。
 あったあった!京都府綾部市でも丹波市と似た古民家を何件か見つけた。 それよりも加佐郡大江町という京都の山奥の奥にすごい家が一軒あった。
 http://www.oct22.co.jp/no7-4/bukken.html#no1
 建物の床が抜け落ちているというから、オフが今の山の家を改修する前の状態に近いのではないかと思われる。 しかし写真で見る限りでは昔は立派な家だったと思われる。 間取りも和室が8,8,8,8,8,6,6、台10とあるし、藁葺屋根の家としては、かなり広いぞこれは。 こういう家を見るとこれを何とかしなければなぁ、とムズムズしてきてしまう。 これも見にいくつもりだが、見た時に、はたしてどう思うか、だろうなぁ・・・

 島本理生著 『ナラタージュ』を読んだ。
 この作品も角川書店発行の本である。
 この前に読んだ森絵都著の『いつかパラソルの下で』の場合もそうだった。 
 バブルが弾けた頃だったろうか、角川書店は社長がコカイン所持で分裂騒ぎがあったと思うが、それまでは文庫本分野などでは新潮社と互角に競っていたように思っていた。 詳しいことは分らないが分裂以来、文学作品に関しては新潮社などとはからり溝をあけられてしまった印象がある。 今回二冊のまあ新人といえる作家の作品を読んでいて、ともにその前半でだが、これは無駄だなぁ、蛇足だなぁと思われる表現が二作品ともかなり目に付いた。
 大作家の場合は別として、新人作家などの場合、編集者が何度か書き直しを求めるというのはよく聞く。 ダラダラと長い作品をもっと締まったものに仕上げるように要求したり、助長なあるいは無駄な表現を削るようにもとめると聞くが、間違っているかも知れないが、今の角川ではそのようなことを編集が作者に要求していないのではないかと思われる。

 それはそれとして、島本理生芥川賞こそ逃しているが、将来渡って楽しみな作家である。
 まず、場面場面での相手との関係を見つめる女性らしい繊細な感覚、それを細かく表現する力はベテラン作家に負けないものがあると思われる。
 それはあたかも場面場面をまるでカメラで写し取ったように細部まで記憶されて、それを後に頭の中で再現し、フォーカスしたりぼかしたり、それぞれの場面を後で楽しみながら自在に再現しながら操っているのではないかと思えるくらいである。
 ひとりの女がひとりの男を愛する話。 そこへ、もうひとりの男が関わる。
 彼女の思いがどのように揺れ、また動いて行くのか・・・ただそれだけの話を三百数十ページの作品仕立てた。 例によって、ストーリィはあらかじめよく考え練られていて、流れに少しも無駄や冗漫なものはない。 ただ前半に過剰で、無駄だと思える表現が少し散らばっていたが・・・今二十代のあまたいる女性作家の中では、頭一つ抜け出し、もっとも将来が期待できる人であろうと思う。