『バ−スト・ゾーン』

 激しい雨は昨夜も断続的に続く。 不燃ゴミの回収日なので早い時間自宅へ行く。
 途中山田川の橋を渡るが、コーヒー牛乳色に濁った濁流が橋桁に激しくぶつかっていた。
 その少し下手は昨年、台風の濁流で川べりをえぐられた箇所だが、その後の補修で補強されたので今回は無事耐えていた。 


 吉村萬壱著の『バースト・ゾーン』を読んだ。
 処女作『クチュクチュバーン』以来一貫して過激な作家である。
 今回は書き下ろしの初の長編である。
 日本国内にはテロリンという名のテロリストが跋扈し、政府をはじめ人々はその見えない敵テロリンに翻弄されている。 一方大陸ではそのテロリンとの戦争が行なわれていて、政府はメディアを通じてテロリンとの戦いのために志願することを国民へ日夜呼びかけている。 最近はどうした訳かこのような勇ましい背景を持つ小説が受けているようだ。

 この小説はそのようなキナ臭くなった時代をあえて背景に選んだのは、作者が<現実>というものの意味を問うことをこの小説の主眼にしているからである。
 戦闘のさなか、というより圧倒的な殺戮を目の前にしながら、男は気がつく・・・

 ≫今いる自分から未来へと絶えず放たれている「意思の矢」というものの存在を、彼はこのとき初めて意識した。一人でも多くのテロリンを殺すという強い目的意識を絶え間なく未来に向けて放ち続けることで、今迄ずっと自分自身を保って来たという事実を彼は知った。その「意思の矢」がなければ、なぜ生きるのかという問いに人間は答えられないのだ。なぜ生きるのか分らなければ、生きる目的を失い、人間は極度に弱体化する。人間が強く生きていく為には、「意思の矢」がどうしても必要なのだ。
 この「意思の矢」が徐々に鈍ってきた。次々に放たれていた筈が、次第に数が減り速度も鈍っている。・・・・・・・・・未来などではなく、たとえば広場での光景や、目の前に見える木の枝の樹液、樹皮を這う蟻の列、自分の手の皺、陽光に透かされて浮かび上がる葉脈等といった身近なものに限定されていくのだ。しかも、それらのものに対して、いちいち意味を考える必要を感じなかった≪
 
  薬というかドラッグのような草を摂取した時は知覚が変容してしまい、洪水のような情報が主観的な取捨選択なしにランダムに入って来る。 あたかもまわりのすべてのモノが、どんな些細なモノでも強烈に存在を自己主張して迫ってくる。 たとえそれが地面に転がっているつまらなさそうに見える一個の石ころであろうとも・・・おーい俺だよ俺、俺、俺はここにいるぞっ!と。 目に映る全てのものが同じような強さで知覚を刺激してくる。  がそれは同時に、襲いかかる圧倒的に強い怪物であっても、そこにある石ころと等価でしかなくなることである。  そのように平板な等価の海原から、何らかの意味や価値を突出させることを回避すれば、もうそれで怪物は襲ってこないのである。
 (まあ、こんなふうにかいても、何のことか分らないと思うが・・・)

 ≫そして、嘗てはあんなに多くの事を語りかけてきた木の枝が、今はどんなに眺めてもただの風に揺れている物体に過ぎないことに失望した。これが「現実」なのだと理解する迄に、長い時間を要した。この世に意味や解釈を付与するのは自分以外になく、ただ待っているだけではこの世界はどこまでも沈黙を決め込むだけなのだ。
 地球の果て迄このような沈黙に支配されているのが「現実」だとすれば、自分がその「現実」に対して何らかの意味のある関わり方が出来るだろうかと、寛子は自信を失った。砂で出来たような味気ないこの「現実」に対して、何とかして自分なりの意味を見出さなければとても生きていけそうにない≪

≫道端の太い木の根に腰を下ろし、凝った肩を揉んだ。ひどく全身がだるかった。首を回して周囲の風景を見回すと、木の幹や水溜りの道、蔓草、木の実、蛇、蜘蛛などが目に入った。これらの物は、それまでずっと多彩な波長を持ってそれぞれの存在感を主張していたが、今や「現実」という名の重苦しい単調な色彩を帯びた単なるモノに過ぎなくなった。これらに何か意味を付与してやらないと、絶対に向こうから喋り掛けてくるという事がない≪

 このような問いが所々に散見される小説である。 一時は世界的に大流行だったが、その後嘘のように消えてしまっていた、そう、かなり遅れて書かれた実存小説だ。