『6000度の愛』

 昨夜は薄ら寒いほどであった。 長袖のシャツの上に、ジャケットを着てちょうどぐらいだった。
 西日本各地では熱帯夜を過ごしているというのに・・・
 午前中から午後にかけて草刈をした。 今の時期草がいちばん勢いよく伸びる頃である。 これからは真夏の太陽の下で草の茎は硬くなり、この時期に刈って置かないとローター式の草刈機では刈りにくくなる。 この時期にいったん刈っておくと、新たの伸びる茎はまた柔らかいので刈りやすい。


 鹿島田真希著の『6000度の愛』を読んだ。
 今年度の三島賞受賞作品である。
 子供と一緒にカレーをつくっている。 もうすぐ夫が帰る頃だがどうしたことかマンションの非常警報が鳴り響く。 その瞬間、彼女の心は時空をトリップして、一瞬にして焦土と化した長崎の原爆のキノコ雲の下にいた・・・という設定で平凡な主婦が、愛について、悪について、無について、信仰について、死について、文学について・・・いろんなものを詰め込んだなぁ・・・詰め込みすぎではないかなぁ、というのが印象であった。 

 しかし、この作者が最初から最後まで、本当に書きたいのはじつは表現するということであり、つまり文学について書きたいのである

 ≫河。言葉の河。兄を表現する言葉が昏々とわき上がり、本物の兄を押し流していく。その先に見えるのは言葉という海。言葉の河に流されたあらゆるもの。人々の過去。男と女。兄を筆頭にすべてのものが流れていった。・・・・・・・私の中に流れているこの河は、私をおしゃべりにしたり、私を無口にしたりする。ある時はこの河を凝視して私はまくしたてるようにしゃべる。この河の流れすべてについて形にする。だけどある時は沈黙する。定着しない言葉の流れに悲観的になって、何事も表現できないのではないか思う≪

 作者は人は日常の中では、臆病で、まさに支離滅裂なまま生きている。 せいぜい思ってもいないことを言ってみたり、好きでもない男に告白してみたり、まさにオペラのような荒唐無稽な日常を生きているのだ、という。 なるほど、なるほど・・・しかも厄介なことに・・・

 ≫私は時々、シーツの中へ潜る。怖いのだ。いつか自分が日常を後悔することが。オペラのように生きてきた自分を軽蔑することが。そんな私を見て、誰かが、優しい人が心配する。シーツごしに私に触れる。私はその人のことを傷つけたくなる≪

 おい、おい、おい・・・なのだが、たしかに人はどこまでも厄介なものである。

 ≫ 愛についての物語が存在や有を肯定する。なんと無力なことだろう。それらと自己の間にあるこの距離はなにものだろう。私ははるか彼方にそれらの肯定を見る。自身の肯定はまだない。だけど自身の死は、それもまたない。狂気に勝る狂気、つまり語ろうという欲求は尽きない。多くの体験が、言葉の力を借りて認識を表出する。誤まった認識。つまりはただの思いこみ。それを吐き出す。あまりのも大量に。消耗する。人の呼吸に役立たない空気のようなもの。酸素は呼吸され残った窒素のようなもの。連想されるもの、無。そんな無に近いものを吐き出しているうちに、絶望を忘れている。理由は知らない。美しいと盲信していた絶望を、記号の力を借りてあまりにも不正確に表現する。それ
らを繰り返す。その行為が絶望すら無化する。形容不可能な現象に囲まれた世界で、人が辛うじて生かされるのはどのような奇跡によってだろうか≪

 この生硬い文章から伝わってくるものは、若者の息吹のような堂々巡りの青春の思考ー肯定することもかなわず、否定することもかなわずー勝手に自己撞着を起こしているような・・・ある意味で苦笑したくなるほど懐かしくもある。