『夏の家、その後』


 山の家のまわりのお年寄りが集まってきて、蕎麦を茹でて食べた。
 オフはどちらかというと蕎麦より饂飩が好きである。 自分ひとりならめったに蕎麦は食べないが、今日のように皆と一緒だと食べる。 冷した麺類がどちらかといえば好まないほうで、夏でも熱々の麺を汗をかきながらふうふうして食べたいほうである。 しかし、蕎麦はあきらかに熱いものより冷やしたものが美味しい。 そんなところからあまり蕎麦を食べない。

 ツバキ婆、ツグミ婆、アリ爺、そしてツバキ婆の家の姐さんがそれぞれビールや枝豆、漬物、スイカなどを持参で集まってきて、お昼を、地元の製麺所が造っている美味しい生の蕎麦を買ってきて茹でて、食べた。 いろいろまわりの人たち、もうすでに死んだ人も含めてだが、噂話が次から次へと出て来た。 と言っても後からここへ来たオフには、その内のほんの少しの人のことしか分らないが・・・こんな小さな部落のうちでも、この数十年のあいだにいろいろな家の栄えや落ちぶれがあったようだ。 台風による雨が降るのを眺めながらビールを飲み、蕎麦を食べ、淡々と話されるそんな話をずっと聞いていた。


 ユーディット・ヘルマン著の『夏の家、その後』を読んだ。
 作者のヘルマンはドイツの若手の作家であり、この作品は彼女のデビュー作で、短編集である。
 面白かった。 久しぶりに文学作品らしい品のある作品を読んだなぁ、という印象がした。
 本の帯にあったが、都会で暮らす若者達の浮遊感覚を繊細で軽やかな筆致、で描かれている。
 表題作の「夏の家、その後」の書き出しを読んで個人的にドキリとせざるを得なかった。

 ≫シュタインはその家を冬に見つけた。
 十二月の初めにわたしに電話してきて、「もしもし」と言ってから沈黙した。わたしも黙っていた。彼は言った。「シュタインだけど」わたしは言った。「わかっているわよ」彼は言った。「元気?」わたしは言った。「何で電話したの」彼は言った。「見つけたんだ」わたしは理解できななくて尋ねた。「何を見つけたって?」すると彼はいらいらしたように「家だよ!家を見つけたんだ」と答えた。≪

 その後、シュタインがその冬に買った家は、じつは廃墟だったことがじょじょに明らかにされていく・・・なにゆえ彼はわざわざそのような建物を買ったのだろうか?・・・人というのは外から見る限りじつに複雑な様相を見せるかと思えば、また同時に単純極まりない動機に支配されたりしている、その微妙な境目で揺れ動きながら、かろうじて今を生きているのである。

 事件ともいえないようなちょっとした小さな事件が、起こるか、起こらないか・・・二十代の若者とか人生を味わいつくしてきたような老人の淡々とした日常を描き・・・人と人のちょっとしたやりとりの行き違いから、深い人生の亀裂を覗いてしまう、その表現力は並の作家のそれではない。 間違いなく21世紀のドイツ文学をになう力量を持っている作家だろう。