『さよならアメリカ』

 一夜明けると台風一過の朝だった。 朝の内残っていた雨も上がり、午後からじょじょに晴れて、さわやかな天気になった。
 被害にあった人がいれば申し訳ないが、今回の台風はまさに理想的なコースを通ってくれた。
 当地では北の高気圧圏内の涼しい空気が入ってきて過ごしやすい。 多分明日もカラリと晴れて、午前中は乾燥した高原の夏のような気候になるのではないだろうか。 この気候が長続きしてくれれば良いのだが、すぐに空気は暖められ、普通の夏に戻っていくのだが、今回の台風がしばしの涼しい夏を置き土産してくれた。

 
 樋口直哉著の『さよならアメリカ』を読んだ。
 本の帯には<群像新人文学賞、新世代の感覚、これぞ小説の未来形>などと書かれている。
 ここに出てくる主人公は自ら、ぼくは袋を被って生活している、言っている。 自分を隠し、人から顔を見られない位置に立つと安心できて、ようやく人とも会話が出来るというのだ。
 世の中には袋とまでいかなくても、相手から目を見られないような真っ黒なサングラスを常時掛けている人などは時々いる。 それも似たようなものだろうと思うが・・・
 そして、ぼくは同じように袋を被って日常生活をしている相手捜している、そのように生活する人のことを密かに袋族と呼んで、何処かにきっと居るはずだと信じて捜している。 そしてある日、路上で見かけた、同じように袋を被って歩いている女性の姿を・・・

 表題の<さよならアメリカ>というのは何のことはないその袋に書いてあった単なる何かのキャッチコピーであって、ただそれだけで、ここでは<さよなら>も<アメリカ>も何の意味を持っていない。 
 何の意味も持たないことを強調することで、ことさら意味がないという意味を付与して新しい世代の感覚ということを強調したい? 
 同じように、身に覚えのない罪に問われる、この主人公は自分ではまったくなぜそうなったのか分らないまま犯人になってしまう。 そのようなことに現代に置かれた状況を表現しようとした?
 あえて<さよならアメリカ>という言葉をわざわざ表題に選んで、それに何の意味も持たせないならば、それはそれに新しい感覚の意味を付与している訳だから、そのことにそれなりの背景や、自分自身の矜持を持って書いていくという心構えがなければ、それは書けないはずだと思う。
 同じように、多分作者はカミュの異邦人を意識して書いていると思うが、カミュが太陽がキラキラと照りつけて引き金を引いた、と主人公ムルソーに言わせたように、この主人公は自分ではまったくなぜそうなったのか分らないまま、犯人になってしまっていたように書いている。 そのようにと言わせるその中に現代を表現しようとしていたとしても、たとえば訳の分らないことで主人公を犯人にするのなら、登場人物をそうさせるには何処かに作者内部のやむにやまれぬ必然性と視点があるはずなのである。 隠れていようとも背後にそれがあって書かれてこそ、その作品の中に新しい感覚が捉えられているのである。
 ここでは、ただ、ただ、そのようなものは何もなく、ただ・・・らしいから、と言う感覚だけで書かれていて、意味を問おうにもそれはまるでタマネギの皮を剥いていくようなだけの気がする。
 当たり前のことだが文学作品は言葉で成り立っている。
 当たり前のことだが、文学は言葉で捉えて、それを言葉で表現するわけである。 
 言葉というものはそこに深く知性が関わらないと成立しない。 読者は作者が提出するテーマやモチーフからどんなに意外だろうと、何処かで共感できるそんな知的なものを根っ子にしたリアリティが感じれるか感じれないかで、その作品の最終的な評価が決まって来る。  残念ながらオフにはそのような知性に根ざしたリアリティなるものをこの作品から何も受け取れなかった。

 まあ、この作品の前にあまりにも現代を描いたすぐれた作品『夏の家、その後』を読んだのも、この作品の評価を下げた一因になったのは否めないが・・・