『南回帰船』

 午前中、留守中預けたあったマロクンを引き取りにA君の家へ行く。
 マロクンはお腹を土の上に着けて植え込みの影で長々と寝そべっていた。 A君の家へ入って珈琲をご馳走になりながら話し込んでいる間、時々キューンキューンと切ない声で鳴いていた。
 この間K君の弟55歳が肝硬変で亡くなった。 十年ほど前にC型肝炎に感染し、余命は長くないと言われていたが、さして医者の言うことも聞かず酒を飲み続けていた。 長生きすれば良いのか、との問題はさておいて、今回自分も含めて初めて現実的に<死>というものを身近に意識した。
 神戸にいたので葬式は出れなかったが、明日にでもお悔やみに行って来ようと思う。
 
 午後から本を読んでいて眠くなり、ウトウトと午睡を楽しんでいたら激しい雨の音で目が覚めた。
 車の窓を半分開けていたのを思い出し、閉めに出ようとしたがあまりの激しい雨で躊躇してしまった。 激しい雨の音を聞きながらお昼過ぎに買ってきておいた冷蔵庫の魚をさばいた。 表面がピカピカ光っているサバは三枚に下ろして振り塩した後、酢で〆る。 カツオも三枚に下ろして軽く振り塩した後、味醂と醤油に漬け込んでヅケにした。 アカイカは下ろして皮をむいておいた。 今日の夜は鮎を塩焼きにする予定だ。 その外に豆アジも買ってきているので、これは後で素揚げにしてマリネにしておく予定。 このようにしばらくマロクンとオフは魚、さかな、サカナの毎日だが、この新鮮な魚全部のお値段は1000円以下なのである。
 魚が下ろし終わった頃、激しい雨が上がったが蒸し暑い。 その内に雷が鳴り出し暗くなるが雨は降らず。 その雷が去った後、急に涼しくなった。 しばらくの間に教科書に書いてあるような手順で前線が通過して行ったのを実感した訳だ。


 中上健次著の『南回帰船』を読んだ。
 中上が他界してもう十数年経つのだろうが、このたび角川書店から劇画の原作で未完の『南回帰船』と『明日』が収録された本が出版された。 事情を知らなかったオフは未完の小説と思って読み始めて、何だこれは!となった。 90年代初め漫画アクションに連載されていて、話が途中で打ち切りになった劇画の原作であるらしい。
 『明日』のほうは劇画化されてもいない未完の作品である。 ともに中上の小説とは趣の違った荒唐無稽なストーリィである。 『明日』は、湾岸戦争の最中爆弾を受けて盲目になった男が、線路に誤って落ちた少女を飛び込んで抱え込み走ってくる電車の鼻先を蹴ってホームに戻った。 その一瞬の出来事を周りの人々が何が起きたか少しも知らなかったなどと言う馬鹿らしい話で始まるし、『南回帰船』のほうは昔、彗星のように現れてマスコミを騒がせた天才レーサーがいたが、絶頂期の前に突然レース界から消え去った。 その男はしばらくして今度はボクサーとして現われ、世界チャンピオンを目前にしながら再びボクシング界からも消え去ってしまった。 モーターバイクレースでいきなりブッチギリのレースをした少年が出現したが、かっての伝説的レーサーでありボクサー男とトンガ王国の姫との落とし子であった。 その後横浜中華街でかのマイク・タイソンとボクシングの試合をして勝つが、彼こそ将来アジア太平洋またがる国々を統合してその頂点に立つ王となる人であった。
 なんと言うか少し恥ずかしくなるような途方もない話である。  あの中上がこのような荒唐無稽な劇画の原作を書いていたとは・・・そのことを積極的に評価しているのは若手の評論家大塚英志であり、彼がこの出版を影で企画しその解説を後半に書いている。 
 この劇画の原作原稿が中上健次の全集から外されていたが、これも含めて中上なんだ、という大塚の主張はよく分る。 が、どう考えてもあの路地の世界の内部で濃密な人間関係が絡み合い、うごめくすぐれた作品を書いてきた中上が何でこんなものを・・・途惑うような内容である。 未完だしこの作品への感想も何もあったものではない。