中村航著 『リレキショ』

 自宅の草刈をした。 畑の草は雨ばかり降っていたせいか一ヶ月間でよくもこんなに伸びるものだ、というほど伸びている。 ほとんどがエコノ草なのでこの時期茎が硬くなっていて、刈払機に巻きついたり、草同士で絡まったりしてなかなかきれいに刈り払えない。
 日本の農業は雑草との闘いだ、と言っていた人がいたが、まさにその通りだなぁと思う。
 その点西側、ヒマラヤ山脈の西側は雨が降らない。 ヨーロッパなどは雨が降るのはもっぱら冬場で、夏に雨は降らない。 よって日本のように夏に草が生え、あたり一面に蔓延こるということはない。
 冬に雨が降って草が生えるが寒いので生えてもたいしたことはない。 以前トルコに行った時、バスで移動したが、行けども行けども川がない。 なだらかな丘のような大地がどこまでもどこまでも続き、そこはすべて麦畑。 こんもりした山はオリーブ畑とワンパターンの風景しかない。 そして川などは見たくてもない。 雨が降らない→水が流れない→川などない、ということなのだ。
 ヨーロッパでも有名なドナウ川とかライン川とかセーヌ川とかあるが、その水は主として山岳のアルプスで降った雪とか雨が流れてくるのであり、そうでなければ川に水などあまり流れない。


 中村航著の『リレキショ』を読んだ。 
 中村航は男性若手作家の一人である。 だいたい若手作家といえば男性は30代半ば、女性はそれより十歳は若く20代、それも最近では前半である。 女性が若くて作家スタートするのは、自分をとりまく身近な範囲への視線だけでも書くき始めることができるからだろうと思う。 男性の場合はたとえ身近な自分の範囲へ視点を絞って書くにしても、一度まわりへ視点を巡らしてから意図的に自分へ戻るというワンクッションが入ってくる。 自分の立っている位置や場所を、どうしても確認するという作業をあらかじめせざるを得ないのだろうと思う。
 この作家中村もそうである。 自分の身近な日常の細部にたいして、真面目に真摯に、誠実に生きるというポリシーが作られて、というかまずその合意が内部に形成されて、しかるのちに主人公が出来上がっている。
 村上春樹ばりの文体で書かれているが、日々の細部に誠実に生きるという点は村上とかさなるが、肝心な点が村上とは大きく異なる。 それは大きな見取り図がないという点だろう。 大きな見取り図というより、大きな物語と言ったほうが良いだろうか。 村上の小説の根底には、現実を彼なりに勝手に組み替えて作り上げているファンタジーすなわち大きな物語の世界がある。 村上はたぶんケチな性格なのだろう、あるいは計算した上でだろうが、その全貌はいつも見せないようにして、いつも小出しにしているのだが・・・ファンタジーというものは本来、その全貌が分ってしまうととてもつまらないものに・・・・なぁ〜んだぁ!にたちまち転落してしまうようなものなのである。 それはすべてのファンタジーの宿命である。
 そのような大きな物語ものを持たないで日常の細部に誠実に生きるすがすがしい人物を描いても、それはすがすがしいなぁで終わる。