星野智幸著 『在日ヲロシア人の悲劇』

 昨日に引き続き草刈をする。 台風が関東をかすめて通り過ぎ、その名残か午前中ムァ〜と蒸し暑い。 草刈をしていても汗が流れ、目に入ったりすぐに防護眼鏡が曇ったりする。 お昼少し前あたりに風が出てきて雨が落ちてきたが、濡れたまま草刈を続行。 何とか午前中で今日の最低のノルマをこなし、残りは明日の仕事とする。 銀行へ行ってお金を下ろす。 最近はカードで現金を下ろす場合一日100万円までとなった。 カードを使い出すと窓口に行ってお金の受け渡しのため他人と対面するのが煩わしく思えるようになった。 オフはめったに利用していないが、ネットでモノを買うのになれれば同じようなことになるのではないかと思う。
 
 最近は山の家と自宅を往復する場合、いちばん南側の道、アップダウンが多い山道を走ることが多くなった。 その山道のちょうど中間あたりに長さ1キロメートル以上あるトンネルがあるが、その辺りで標高500メートルぐらいある。 そのトンネルの中はとても涼しくて、半袖だと寒く感じるくらいで、それが嬉しくて夏場はそこの道を通るわけだ。 それにその道はカーブも多くアップダウンが大きいが車がぜんぜん通らないのも嬉しい。 今日もその山道区間だいたい25分ほど走るあいだに行きに一台、帰りに一台の車とすれ違っただけである。 行きも帰りも一台の車と出会わないことも結構ある。 そんなさみしい道でも全区間が舗装されていて走るのは快適である。 馬鹿なことに税金を使っているなぁとその道を走るたびに思う。 先日その道でカモシカに遭遇したりしたりもした。
 カモシカといえばマロクンとの散歩の途中で出会ったこともある。 カモシカの目は近眼だといわれているが、その通りでこちらがすでに気が付いて立ち止まっているのに、トコトコとやってきて10メートルぐらい手前でやっと止まって、お互いにやれ困ったなぁという顔をしあっていたこともあった。
 

 星野智幸著の『在日ヲロシア人の悲劇』を読んだ。
 星野智幸は作家の中で唯一日記<言ってしまえばよかったのに日記>を読んでいる。

 彼の時評はユニークだし、かなり鋭い。
 こちらのほうが作家としての文章よりすぐれていると思えるのだが・・・
 
 好きなタイプの作家だから言うのだが、作家としての彼は自分の作品世界をもう少しわかりやすく開くべきだとおもえる。  純文学系の場合、内容があれば分りにくいのはヨシトスル風潮があるが、分りやすく中身が濃いに越したことはないだろう。 今回の作品はその意味ではかなり読みやすく、分りやすくなっているのだが、まだまだ勢いで書いていて、ぜんたいから眺めると辻褄がとれていないところが各所にある。
 勢いでもって書き始め、結論は書きながら、導かれるまま書き進んで落とす所へ行くタイプなのだろうが・・・たぶん『在日ヲロシア人の悲劇』という表題があって、その表題をテーマにした物語として書き始めたのだろうが、物語は表題から外れたところへかってに進んで行ってしまって、結果なんでこんなタイトルを付けたの?という感じに終わっている。
 べつに一時代前のように起承転結をキチット意識して書くべきだと言わないが、もう少し自前の作品を大切にすべきではないかと言いたくなる。 テーマは戦後民主主義の家族問題を取り上げているのだが、家族を構成するそれぞれの個人の思想がまずあって、しかる後にその思想をもとに人物が作り上げられている。 それを決して悪いとはいわない。 ドストエフスキーなどはそのように人物を作り上げている。 しかし、その肉付けがいまいち荒削りなパターン化されたまますすんでいくので、せっかくの中身の濃い面白い物語を結果薄っぺらくしてしまっている。
 本の帯にはこのように書いてある。
 <日本を生きるという空疎。国家、政治、思想、世代、個人、さまざまな問題意識を重層的に取り込み展開される、新しい「家族小説」。> 
 さらに、こうも書いてある。
 <孤独ってのは何だかわかる?一人っていうことだけじゃない。歴史を忘れてしまうってことなんだよ>
 まさにそれはそうなのだが、残念だが言葉だけが一人歩きしてしまっている。