『まぼろし』

 雨降りの日が続いている。 今日も朝から雨で、夕方近くから夜にかけて雷を伴って断続的に激しく降った。 気温は下がって、これまでほぼ開けっ放しになっていた家の戸を閉めた。
 昨夜あたりから背中にデキモノができて上を向いて寝ているとそれが痛い。 この時期オフは敷布団を敷かずにじかに畳の上で寝ている。 夏風邪がすっきりしなくて熱はないが痰や咳が続くし、なんとなく身体が浮いたような感じが続いている。
 スーパーの中に、地元の農家が収穫した野菜や果物をを売っているコーナーがある。
 そこでタマネギを一袋買ってきた。四個入って200円弱のごく当たり前のタマネギだった。
 そのタマネギを薄切りにしていたが、ぜんぜん目に滲みてこない。 きざんだ一切れをなにげに口に入れてみて驚いた。 ほんのりとした甘みが口の中に広がったのである。 タマネギは水にさらして辛味を抜いたり、弱い火をじょじょに加えて甘みを出したりするものなのだが、生でそのまま食べて甘いとは!これには驚かされた。 多分、長い時間をかけて良い土をつくった畑で栽培されているタマネギなのだろうと思う。 

 
 生田紗代著の『まぼろし』を読んだ。
 この作者も20代前半の若手である。 川上弘美柳美里などと比べればまだまだ力の差は歴然とあるが、これからが楽しみな女性作家の一人である。

 この本には二編の小説が載っている。 「まぼろし」と「十八階ビジョン」の二作品である。
 「十八階ビジョン」は就職活動に多大な苦労して入ったようやく入った会社を、数ヶ月で辞めてしまい、実家に戻って来年受験を控えた高校生の妹とダラダラした日常を過ごしているという、まあ、何ということのない作品。
 「まぼろし」のほうは、記憶に残っている母親は、いつも「こんなはずじゃなかった」ということを口癖にして自分の夫のことを怒っていた。 そんな母親はわたしが高校三年生の時に家を出て行った。
 それから八年間一度も逢ったことのなかった母親だったが、突然戻りたいと言ってきている。
 娘と母親との確執を取り上げ<誰でも一度は親を殺す>というテーマを正面に据えて描いている。
 
≫忘れていたわけじゃない。ただ、思い出そうとしなかっただけ。閉じ込めていた。自分の中の小さな空洞のすみに、怖かったから。少しでも記憶の片鱗を内側から出したら、あの日の和室に戻ってしまう気がして。いつも母親の顔色を窺いながら、母の心に巣くう暗闇におびえ、家の中でじっと息をひそめていたあの頃の自分に。でも私の想いとは裏腹に、ふとした瞬間に、劣化していた記憶は復元してしまう。鮮やかに、しっかりと線を持って。私だけが、家族の中できっと私だけが、母を許していないのだ。父も兄も、もうとっくに母のことを許している。いや、兄は許していないかもしれない。でも兄は何かを諦め、何かを捨て、受け入れようとしている≪


≫私が母の娘だからだ。父にも兄にもわからない。娘である私だけがわかる母の孤独と怖さ。恐ろしくて、嫌で、不気味で、愛していた。母のことを。八つ当たりされても逃げ出さずにそばにいたのは、それでも母が好きだったから。父がいなくて、兄がいなかったあの家で、私が母から逃げたら誰が母のそばにいてやるというのだろう。そんな人間は誰もいない。私だけはいてやらなくては、といつも自分に言い聞かせていた気がする。もしかしたら、私は自ら望んで父の身代わりになることを引き受けていたのではないか。それで母の気が済むなら、そう思って、どこかで犠牲になっている自分を哀れんで、可哀そうな健気な娘だと、満足していたのでは。恐ろしいことに、今ではそんな気さえしてくる。それなら本当に悪いのは、母だけだったのだろうか≪

 

 『雨と夢のあとに』

 午前中墓参りなどを済ませ、お昼前から集まったおなじみの友人3人と買い物に行き、お昼はバーべキュウ。 今日の集まりの名目はオフの壮行会、来月から京都府綾部へ移るからという理由をつけて・・・。 途中よりやはり高校時代の友人もう一人飛び入りで。 その彼は、来期の市町村選挙に出るかもしれないという。 頭がおかしくなったかと思ったが、まあ、家庭的にもあまり恵まれていない淋しい男は、突然そのようなおかしな話に乗ってしまうことがあるみたいだ。 やれやれ・・・。


 柳美里著の『雨と夢のあとに』を読んだ。
 柳美里川上弘美と同様オフの好きな中堅の女性作家だ。 
 ともに今脂の乗った時期であるのか、すぐれた作品を書いている。
 この『雨と夢のあとに』も川上弘美の『古道具 中野商店』に負けない素敵な作品である。
 12歳の少女雨が主人公で、思春期に差し掛かっている彼女の思いの流れがこの作品の内容となっている。 彼女が職員室でこっそり見たエンマ帳には<父子家庭、父は写真家(昆虫)で、撮影で不在がち。二歳の時に母が失踪。離婚は未>と書いてあるような背景を持つ多感な少女・・・彼女の独白に以下のような箇所がある。

  ≫わたしったら、おばあさんが不治の病で死んじゃったり、おじいさんがひと柱になったっちゃったり、お嫁さんが鶴とか蛇とか雪女になって消えちゃったりする暗い話がミョ−に好きなんだよね。ひとことでいうと気持ちが安らぐの、暗い穴に潜るみたいな気がするっていうか、うーん、湿ったカビの臭いがする押入れのなかで丸まって眠るみたいな?≪


 ≫わたし、車にはねられて死にかけていた猫を見て、気持ち悪いって通り過ぎるひとより、かわいそうって通り過ぎるひとのほうがぜったい許せない。だって、関わるか、関わらないかでしょう?動物病院に抱いて行って、助かる見込みがあるなら、治療してもらって元気になるまで看病するか、助かる見込みがないなら、安楽死の注射を打ってもらってお墓をつくるか・・・、どっちでもできないんなら、黙って通り過ぎるしかない。すべてに立ち止まることなんかできない。すべてに関わることなんかできない。でもそれは、とても辛くて哀しいことだよ。かわいそうだなんていって、いいひとぶるヤツ、サイテ−!≪

 昆虫採集に台湾にでかけた父親からは10日も経つのに何の連絡もない・・・時々襲ってくるその漠とした不安は彼女の日常の中に食い込み、独りぼっちになってしまうのではないかと思いは、心の内側で彼女を激しく動揺させているのだが・・・彼女は対外的にはそのことを誰にも気付かれたくない。 
 何時もと変らない気丈で明るい今時の少女を健気に振舞っている。 そのあたりの現実と願望、幻想と日常生活が入り乱れて、この年頃の少女の曖昧で微妙な心理とあいまって、不思議な雰囲気をかもし出しながら物語を先へ先へと追い立てるように突っ走っていく・・・のだが・・・
 この時代の文学のあり方にキッチリと嵌まるようなある種の物語の進め方、を確立した記念的な作品だろうと思える。
 

 『古道具 中野商店』

 神戸では朝早くからクマゼミがシャーシャーとせわしなく鳴いていたが、この地にはクマゼミはいない。 その代わり朝晩ヒグラシが鳴いている。 アブラゼミやミンミンゼミも日中鳴いているが、少し涼しい時間になると鳴き出すヒグラシの鳴き声はどことなくわびしい趣がある。
 土間ではツバメの雛たちも鳴いている。 親鳥が餌を運んでくるたびにチィチィとやかましく鳴いている。 ツバメ達には今年二度目の子育てである。 ツバメ達も餌を運んでくるのは朝夕が頻繁である。 


 川上弘美著『古道具 中野商店』を読んだ。
 川上弘美は『溺レる』あたりで、ある一線を突き抜けて以来まさに絶好調である。
 一作毎に弘美ワールドを拡大しながら深化させていっている。
 この作品も、そのことを言葉として書くだけだけでなく、作品全体で愛の行き着く先の何もないからっぽな空洞というか空虚さを見事に作品化させている。 

 何人かの登場人物がいる。 一見抜け目のない商売人のようでどこかほんの少しアブナイ店主の中野さん。 その妹のマサヨさんのほうがむしろ商売人向きだと思うが、じつのところ彼女は人形などを造る芸術家である。 人嫌いで極度に無愛想な従業員のタケオは絵を描かせると芸術家肌の腕前なのだが・・・それに、中野さんの浮気の相手の妖しい小説モドキを書くサキ子さん。
 その外ちらりちらりと姿を見せては消えていく常連のお客さんや近しい同業者達・・・
 そして古道具屋のお店番でこの物語の語り手のヒトミ。 彼女こそがウブで純真無垢そうで、いちばん正体不明な女なのであるが・・・ある意味では才女川上弘美はこのヒトミさんのようにとらえどころのなさを振り撒いて日常生活を生きているのではないかと思われるのだが・・・
 中野商店は、表題通り古道具屋であるが、お高い品を置く骨董品屋や小洒落たアンテークの店ではない。 どちらかといえば街中の商店街の少しいかがわしいようなリサイクルショップに近いような店である。

 『漢方小説』

 昨夜の雨と雷はすごかった。 雷などをめったに怖がらないのだが、昨日は少し落ち着きをなくして部屋の中をウロウロしたりしていた。 平地とは違って山の雷は凄いものがある、そのうち何本かは木などに落ちたかもしれない。 雨も短時間だったが激しかった。
 昔、静岡一時間に100ミリ降る雨を経験したことがある。 その時は七夕豪雨といって静岡市清水市の各地の川が氾濫して大きな災害になった。 その時は山の際に住んでいたが、道が見る見るうちに川になり、ドウドウと水が音を立てて流れはじめ、家の中へも水が入ってきた。 さいわい床の高い家だったので床上まで水は来なかったが、それがまさにあれよあれよと言っている間の出来事だった。

 午前中母親を病院に下ろして、弔いに行く。 その後昨年度収入なしの申告を済ませ、図書館へ。
 今回は小説は借りず、民家や木造建築関係のムックを4冊借りてくる。
 その写真集のような本を見ていて、内部に水が入り床が腐り抜けている綾部の家の蔵も壁を開口して窓を付け居住空間にしようと思い始めた。 曲がった栗の柱を避けて分厚い土壁を開ぶち抜いて開口し、その部分を後で漆喰で塗り固め、綺麗に仕上げるのは結構難しそうだが・・・
 さらに母屋と蔵との短い空間に渡り廊下を設けて、雨の日でも濡れないで行けるようにしようと思う。 たとえ廊下のような簡単なものでも、木材で小屋組みを造るのはこれが初めての経験ということになる。 木取りから墨付け、組み立ての全部の行程を自分一人の力でやってみようと思うが、そう思うだけで何だか今からワクワクしている。

 〆鯖が美味しく出来た。♪らんらんらん〜
 売っているモノは身が真っ白になっているが、振り塩の状態と酢に漬けるのを分離して、ともに1時間ほどで済ませたので表面は白くても内部が半生で赤く光っている状態に仕上がった。 それにヅケにしたカツオ、冷蔵庫で半乾き気味にしたイカ刺し、神戸に行く前に昆布で〆ておいた黒ムツ、それぞれを皿に少しずつ盛り付ける。 魚好きのオフが10年前頃からなんとなく刺身が食いたくなくなって、新鮮な魚に以上のようなチョイトした小細工をしながら食べている。


  中島たい子著の『漢方小説』を読んだ。
 何ともおかしなタイトルの作品だが、これが良く出来た小説である。
 作者は美術系の大学を出て、これまでおもに映画制作部門で活躍していた人らしい。
 この作品が事実上小説のデビュー作ということだが、どうしてどうして新人の作とは思えないような、この世界で長年飯を食っているベテランが書いたような完成度を備えている。 若い時から文学の世界は彼女のおなじみの、お気に入りの世界だったことが文体、筋運びの中に自然に滲み出ている。
 今時の都会生活をしているチョイ婚期の遅れた30歳過ぎの女性ー負け犬さんーが主人公である。
 ややワーカーホリック気味な上に、モトカレが晴れて結婚する〜という情報に接してたちまち発作を起こして救急車で病院へ。 その後も体調不良は続き、ときには原因不明の発作に襲われる日々が続く。 何軒か病院を医者を渡り歩いたが、その都度検査をしても異常なしと言われるだけなのだが、体調は一向によくならない。 そこで昔診てもらったことのある漢方医の受診を仰ぐわけである。
 ところがその漢方医院の新人イケメン先生、というより、彼女好みな先生が担当医になった。
 さあ、大変!というわけである。 その先生をより知ろうという思いが、彼女をして漢方を知ろうという密かな行動になり・・・彼女は何事にもまず知識を詰め込んで、おつむを武装することから始めるタイプなのである。 調べていくうちに「喜びは悲しみに勝ち、悲しみは怒りに勝ち、怒りは思いに勝ち、思いは恐れに勝ち、恐れは喜びに勝つ」のだという漢方医学の不可思議な循環の思想を知ることになる。
 

 『南回帰船』

 午前中、留守中預けたあったマロクンを引き取りにA君の家へ行く。
 マロクンはお腹を土の上に着けて植え込みの影で長々と寝そべっていた。 A君の家へ入って珈琲をご馳走になりながら話し込んでいる間、時々キューンキューンと切ない声で鳴いていた。
 この間K君の弟55歳が肝硬変で亡くなった。 十年ほど前にC型肝炎に感染し、余命は長くないと言われていたが、さして医者の言うことも聞かず酒を飲み続けていた。 長生きすれば良いのか、との問題はさておいて、今回自分も含めて初めて現実的に<死>というものを身近に意識した。
 神戸にいたので葬式は出れなかったが、明日にでもお悔やみに行って来ようと思う。
 
 午後から本を読んでいて眠くなり、ウトウトと午睡を楽しんでいたら激しい雨の音で目が覚めた。
 車の窓を半分開けていたのを思い出し、閉めに出ようとしたがあまりの激しい雨で躊躇してしまった。 激しい雨の音を聞きながらお昼過ぎに買ってきておいた冷蔵庫の魚をさばいた。 表面がピカピカ光っているサバは三枚に下ろして振り塩した後、酢で〆る。 カツオも三枚に下ろして軽く振り塩した後、味醂と醤油に漬け込んでヅケにした。 アカイカは下ろして皮をむいておいた。 今日の夜は鮎を塩焼きにする予定だ。 その外に豆アジも買ってきているので、これは後で素揚げにしてマリネにしておく予定。 このようにしばらくマロクンとオフは魚、さかな、サカナの毎日だが、この新鮮な魚全部のお値段は1000円以下なのである。
 魚が下ろし終わった頃、激しい雨が上がったが蒸し暑い。 その内に雷が鳴り出し暗くなるが雨は降らず。 その雷が去った後、急に涼しくなった。 しばらくの間に教科書に書いてあるような手順で前線が通過して行ったのを実感した訳だ。


 中上健次著の『南回帰船』を読んだ。
 中上が他界してもう十数年経つのだろうが、このたび角川書店から劇画の原作で未完の『南回帰船』と『明日』が収録された本が出版された。 事情を知らなかったオフは未完の小説と思って読み始めて、何だこれは!となった。 90年代初め漫画アクションに連載されていて、話が途中で打ち切りになった劇画の原作であるらしい。
 『明日』のほうは劇画化されてもいない未完の作品である。 ともに中上の小説とは趣の違った荒唐無稽なストーリィである。 『明日』は、湾岸戦争の最中爆弾を受けて盲目になった男が、線路に誤って落ちた少女を飛び込んで抱え込み走ってくる電車の鼻先を蹴ってホームに戻った。 その一瞬の出来事を周りの人々が何が起きたか少しも知らなかったなどと言う馬鹿らしい話で始まるし、『南回帰船』のほうは昔、彗星のように現れてマスコミを騒がせた天才レーサーがいたが、絶頂期の前に突然レース界から消え去った。 その男はしばらくして今度はボクサーとして現われ、世界チャンピオンを目前にしながら再びボクシング界からも消え去ってしまった。 モーターバイクレースでいきなりブッチギリのレースをした少年が出現したが、かっての伝説的レーサーでありボクサー男とトンガ王国の姫との落とし子であった。 その後横浜中華街でかのマイク・タイソンとボクシングの試合をして勝つが、彼こそ将来アジア太平洋またがる国々を統合してその頂点に立つ王となる人であった。
 なんと言うか少し恥ずかしくなるような途方もない話である。  あの中上がこのような荒唐無稽な劇画の原作を書いていたとは・・・そのことを積極的に評価しているのは若手の評論家大塚英志であり、彼がこの出版を影で企画しその解説を後半に書いている。 
 この劇画の原作原稿が中上健次の全集から外されていたが、これも含めて中上なんだ、という大塚の主張はよく分る。 が、どう考えてもあの路地の世界の内部で濃密な人間関係が絡み合い、うごめくすぐれた作品を書いてきた中上が何でこんなものを・・・途惑うような内容である。 未完だしこの作品への感想も何もあったものではない。
 

 綾部の家

 今日午後7時ごろ神戸から帰った。 お盆が近いのでサンダーバードの自由席は大阪を経つ時点ですでにほぼ満員だった。
 今回東京で二日間過ごした後神戸へ行ったのだが、神戸へ向かう新幹線の中で喉を痛めてしまった。 その後も連日熱帯夜が続く神戸のマンションでは、冷房なしで眠れるはずがなく、元々あまり強くない喉のほうは終始イガイガして痰が絡みっぱなしであった。
 山の家へ帰りついてこれでようやく今夜から冷房の助けを借りない夜を過ごせる。 締め切っていた窓を全開にした山の家に今はタンクトップ姿でいるのだが、これだと少し肌寒いくらいである。
 今回子供達に逢いに行ったのは、一つには長男夫婦に近々ベイビーが生まれるのだが、その様子見というか・・・まあ、息子の嫁は元気そうだった。 離れていてよく知らなかったのだが、一時はかなり早産になるかと危ぶまれた事もあったらしいが、その時期を無事に乗り越えたらしい。 子供はすでに男の子ということが分っていた。
 それにオフ自身も今度神戸の彼女と籍を入れることを報告することと、綾部市で古民家の再生を手がけることの報告もしておきたかった。 食事をしながらそのことを話した。

 神戸に行った翌日、まだ綾部の家を見ていない彼女を連れて車で舞鶴自動車道を北へ向かった。
 途中の丹南笹山口インターで下りて、先に不動産屋から連絡があった倉庫つきの古民家を見に立ち寄る。 写真ではかなりよく見えた物件だったが、現物を見て二人ともガッカリしてしまった。
 お見合いと同じであまり写真をキレイに撮るのも考えものである。 その後いっきに綾部インタ−まで行き、お目当ての家を通り過ぎて故屋岡という山の中の一軒を見る。 これは茅葺屋根だとばかり思っていたが、行ってみると瓦葺であった。 家自体は田の字型の部屋取りで古いものだが、ある時点で屋根を瓦にしたのだろう。 家の中はかなり荒れていたが、まわりの家とも適度に離れているロケーションもよく、かなり気に入ってしまった。
 その結論は置いておくことにして、本命の綾部の上林の家へ向かう。
 彼女とじっくりと家の中や外を見回ったが、前回はあまり気にしなかったが、建物の北側のちょうど床の間にになっている壁面が浮き上がっていた。 壁伝いに雨漏りがしている。 外へまわって見ると、下屋の屋根垂木がかなり痛んでいて、この北面の下屋は瓦を下して下屋やり変え、壁もいったん落として新たにやり変えるしかないと判断した。 後、目立ってひどいのは蔵の内部で、床が腐って抜け落ちていた。 何らかの原因で、多分基礎の部分からだろうが、水が入り閉鎖された空間で湿気が篭もり床が腐ってしまったのだろう。

林望著 『帰宅の時代』

 今日午後、首都圏へ行く列車に乗る。
 今夜は娘の所へ泊まる。 明日は産み月が近い上の息子の嫁さんの顔を見てから、下の息子のところへ泊まり、明後日は横浜の中華街で皆で食事をした後、神戸へ向かう。
 明日からまた、十数日間この日記はお休みとなる。


 神戸に回った時、綾部の古民家を了解の返事をすることになる。  その時に手付金なりを払わねばならないだろう。 そうなればどうあろうと前に向かって走るしかなくなる。 そのこと自体には迷いはないが、その後も二、三良さそうな物件は出てきている、これが気持ちを迷わすのだ。
 岡山の東よりの山陽道沿いに新たに出てきた比較的安い二件。 綾部市の今回のものからもう少し奥へ入った三百万台という格安のもの。 それに昨日連絡があったのだが、神戸から比較的近く篠山口インターや市街にも近いという物件。 これは横に五十坪もある倉庫が二棟付いて1千万円以上と高かったので外していたものだが、不動産屋が古民家と倉庫を二筆に分けても良いと連絡してきた。写真で見る限りこじんまりとしているが、手を加えればかなり良いものになりそうで、なんとなくやりがいがありそうな家である。 ロケーションも周囲に家が建て込んでいないし、少々お高くても後の始末を考えると笹山は綾部より楽なのは確かである。 岡山のものは別にしても、後の二件は、後悔しないためにも一応先に見ておく必要がありそうである。


 林望著の『帰宅の時代』を読んだ。
 これは小説ではない。 軽いエッセーとでも言うのか、わたしの信条とか、わたしはこのようにして生きてきた、ということを書いた本である。 今の時代風に軽く生きよう、しかし好きなことはどんどんやろうじゃないかと・・・と書いたこんな本が結構売れるのだろう。
 この手の本は五木寛之などがよく書いている。 どんな時代にもこの手の本を書く人と、それをもとめて読む人がいるのものなのだ。 人々はいつでも、どんな時代でも、この手の本を読みたがるものなのだ。 まあ、小見出しを見ていけば何が書いてあるか、それだけでだいたいの内容が分るが、ちなみに第一章の<「自分らしく」暮らすための十カ条>の小見出しは・・・

 家に帰ろう!
 「人並みの生活」を捨てよう
 霜降り肉を疑え
 野菜の皮を剥かない
 ファッションは何を着るかではない
 自分でよく調べるべし
 身の程を知れ
 「清貧」ではなく「清富」であれ
 自己投資にはお金を惜しむな
 他人と違うことに誇りを持て
  
 とある。 まったくもってごもっともな話ばかりである。
 しかし、これを読んだからと言って、読んだ人が明日から自分が作者ように変身するかと言えば、そんなこともない。 だからこそ安心して読まれていると言えるのだろうが・・・変るといえば、せいぜい何かのついでに、それらの意見を自分の意見のように表明したりする程度の変化はあるだろうが・・・。