夏の長雨

 天気は相変わらず晴れたり曇ったり雨が降ったりの一日。
 この雨模様の夏も前線が通過する明日までと思っていたが、南から台風が近付いて来ている。
 現在930ヘクトパスカルとかなり強い台風であるが、このままいくと今週半ば過ぎに西日本直撃もありそうだ。 天気が落ち着いたら先日から庭に届いている材木を薪に切らねばと思っていたのに、どうやら薪は乾く暇もなさそうである。

 今日は二ヶ月に一度の内科受診の日。 オフは高血圧体質で、ここ数年毎朝薬を飲んでいる。
 薬を二錠飲んでいるが血圧は上が140から150台、下が90から100台、これ以下にはなかなか下がらない。 二ヶ月に一度の受診だが、その度に尿検査と血液検査をしている。 その結果は慢性的にHDLコレステロール、つまり善玉コレステロールは30台でやや低く、尿酸値は7台でやや高い。 血糖値も130台だが食事をしての血液検査だし、これはあまり当てにならない。 問題があるとすれば中性脂肪だろう。 ダイエットすれば血圧値や中性脂肪値も下がるだろうことは分っているが、いっこうに体重は減る気配がない。 毎日のご飯の量を意識的に減らしているが、その分おかずを多く食べてしまっているからだ。 夏痩せするという人がいるというが、オフは夏場になればかえって食事が美味しくなって、結果太ってしまう。 来月から綾部のほうへ行くので、受診を3ヶ月に一度にしてもらった。
 来月から綾部へ行けば毎日フルに身体を動かすようになる。 その分お腹も減るだろうが・・・昔からデブな大工さんというのはあまり見たことない。 オフの現在の体重は87キロあるが、はたして汗を流してこの先体重が減って少しでもスリムになれるかどうかだ。 

 最近は順調に本を読んでいる。 だいたい一日一冊のペースである。 小説を読む合間に建築関係の本も読んでいるので、それ以上のペースで読んでいることになる。 あえて今の静かで充実した生活を崩すこともないだろうにと思ったりもするが、もう決めたことである。 30日に契約に綾部へ行く予定になっている。 先途見た時は座敷の床の間などがある建物の北側が雨漏りを始めていた。 最近の雨や今度の台風が雨を伴っていればますます心配である。 契約が終われば、何も考えない内にすぐ仕事に掛かるのがいちばん良いのだろうと思う。 その場合やはり北側の下屋の屋根を外し、壁を落とすという、きわめて汚い仕事から始まることになる。

 阿部和重著 『グランド・フィナーレ』

 山の家のまわりの地形は東だけが開いたコの字型になっている。 当地方では東の風というのは台風が南側を通過した時ぐらいしか吹かないので、ぜんたいに風当たりが弱い。
 山の家から見て北側に小さな尾根が東向いて延びている。 南風が吹くときは、その尾根の木々が正面からの南風を受けて葉が裏返って白く見え、ゴォーゴォーという風の音も聞こえてくる。 それを見たり聞いたりして、はじめて今日は南風が強いなぁと思うわけだ。
 今日も木々が裏がえって白くなっていた。 つまり午前中フェーン現象になり気温が上がっのだったが、ここのところ湿度が高い日が多かったので、乾燥した南風がかえって気持ちよく感じれた。 お昼過ぎにはまた雨、その後急に涼しくなった。

 久しぶりにレバニラをつくった。 スーパーに鮮度の良い豚レバーの塊があって買ってきた。
 薄く小さく切って冷水に晒すが、新鮮なせいか血が滲んで出て水が濁ったりしない。
 レバーは醤油と味醂胡麻油にトウバンジャを溶いたものに一時間ほど漬け込み、片栗粉をまぶしてまず油で揚げる。 ニンニクを弱火で炒め、さらにショウガ、シイタケ、ニラ、モヤシを強火でさっと炒め、揚げたレバーも加えざっくり混ぜて味醂醤油オイスターソースで味を調え出来上がり。
 山の家では中古だが業務用のガスレンジを使っている。 業務用ガスレンジはレンジの口が二重の輪になっていて火力が強い。 普段は外側のガスの口はめったに使わないが、強火で野菜をさっと炒める中華の時はだけは使う。 野菜から水が出ないので、べとつかず美味しく仕上がるからだ。
 

 阿部和重著の『グランド・フィナーレ』を読んだ。
 前回の芥川賞受賞作品である。 芥川賞作品は新刊コーナーに並んだ時借りないと、順番待ちの人が出て当分の間読めなくなる。 若手作家登場と騒がれた綿谷リサの『蹴りたい背中』などはいまだに貸し出し中が続いているのか一般図書のコーナーでも見かけない。 娘や息子住む東京や横浜の図書館では芥川賞作品は順番待ちが100人以上待ちは当り前だそうだ。 一時、人気のある作品を何冊も図書館が購入するのはけしからん、と作家や出版社などが抗議していたことがあった。 それを受けて図書館も以前のように一冊しか置かなくなったのだろうと思う。 今回の芥川賞も少し前に決まったニュースがあったから、『グランド・フィナーレ』もこちらの田舎の図書館でも半年以上読めなかった計算になるのだ。
 本の帯には芥川賞受賞と大きく書き、<文学がようやく阿部和重に追いついた>と大げさなコピーが書かれている。 これまでに阿部和重はいろんな賞もとり出版界から若手の作家として有望視されている。 阿部はたしかに今迄にいなかったタイプの作家ともいえるが、どうしたものかオフ好みの作家ではない。 今回の作品も悪い作品ではないと思うが、やはり好きではないなぁ・・・という感想が読んでいて出てきてしまう。
 話は映像関係の学校を出て、教育映画会社に勤め助監督から監督になった男。 恋人とできちゃった結婚し娘が生まれ、一人娘を溺愛している。 ごくごく普通の顔をした男だったが、その顔の下にもう一つの顔があって、それはロリ−タ・コンプレックスという顔だった。 娘のものを含め自前で撮った合膨大なコレクションが偶然妻にみつかり、それを巡ってもみ合った拍子に運悪く妻の骨にひびが入り、たちまちドメステック・バイオレンスとして訴訟される。 結局妻とは離婚、娘と会うことも禁じられた男の・・・話は男のその後のこと、である。
 
 ≫決して愉しいものではない打ち明け話を長々とここまで続けてきたわたしには、どこかで解せない気分があった。聞き手のIが一貫して示す、冷静に徴収をこなす検察官みたいな態度にも、ちょっとした困惑を感じていたが、それとは別にわたしは、おのれの過去を恰も他人事のごとくすらすら話せている自己自身に対する違和感を拭えずにいた。・・・・・・言葉を口にするたびわたしは、不定形な現実や時間の経過に一つ一つ区切りを付けているような気にもなり、自分がぜんぶ終わったことにしたがっているらしいと悟りかけてしまった≪
 
 彼は嘘もなく一つ一つを語り終え・・・彼は変りつつあるのだろうか・・・

 ≫わたしはIが、この手の、双方の実生活に深く立ち入ったやりとりは友人同士であってもしたがらないタイプの人間だと認識していたので、本日の彼女の言動はなおさら意外に映った。
 あるいはそれは単に、わたしこそ他者に無関心なために、彼女を自分と同一視していただけでしかなく、I自身は昔から「みんな」に対し、腹を割った対話を求めているということなのだろうか。だとすればわたしは、Iという人の性格を完全に捉え損なっていたわけであり、また彼女のみに限らず、Yや伊尻や紗央里を含むあらゆる知り合いや家族たちの生の声にも耳を傾けようとはせずに、こちらが勝手に仮構したおのおのの人物像ばかりに視線の焦点を合わせて、適度にコミュニケーションした気になっていただけなのだろうか。しかし誰もが多かれ少なかれ、そんなふうにしか他人とは触れ合えぬものではないか、などと、わたしはここで開き直ってしまうことも出来るだろうが、・・・≪

 その後、彼は田舎に移り、ある流れで小学六年生の二人の少女と出会う。

 糸山秋子著『逃亡くそたわけ』

 山の家の縁から北アルプスの山々の稜線が見え、ようやく夏らしい夏が戻ってきたかなぁと思っていたら午前中だけで、午後からは雲が広がり今日も夕方から雷雨。 どうやら晴れ間があるのは明日までで、明日夜あたりからまたしばらく雨模様になるらしい。 山の家ではお盆が過ぎて今頃になってようやくアブの姿を見かけるようになったが、これから飛び回ると言ってもせいぜい後10日あまりだろう。
 今月の終わりごろからはいよいよ稲刈りも始まる。 実を付け始めている稲穂の頭は深くお辞儀し始めているが、メインのコシヒカリの刈り入れは来月に入ってからだが、今年は今のところ倒れている稲もあまり見かけないが、これからの季節台風が日本に向かうか向かわないかで、米の収穫も大いに変わるのだろう。  おわら風の盆の前夜祭が今日から30日までの予定で始まった。 

 糸山秋子著の『逃亡くそたわけ』を読んだ。
 以前に『海の仙人』という作品を読んで、この作家にはガッカリさせられているが、この作品もその二の舞である。 というより前の作品よりさらに一段と内容が乏しくなっている。
 躁病の女と、鬱病男と病院を抜け出し、車で九州を縦断する話。
 作者は何がいいたくてこれを書いたのだろうか? テーマもモチベーションもまったく伝わってこない。 読み終わった後、くそたわけ、と作者に向かって言いたくなった。

サイゴン陥落の映像

 今日は生協の日である。 卵、めかぶ、豆腐、梨などと共に珈琲の豆が来た。
 ここ二、三日珈琲豆が残り少なくなり、一日一杯しか飲んでいなかった。 珈琲は最低でも毎食後、つまり日に三杯は飲みたい。 豆は<森の珈琲>というブランドを飲んでいるが、値段はそんなに高くはなく100グラム当たり300円を切っている。  多分豆を焙煎した後の管理がキチットしていないのだろう、美味しい時とそうでない時がある。 美味しくない時は少々腹が立つが、これが止められないのは、美味しい時の味が苦味、酸味、甘味の微妙なバランスがまことに上手くとれた味を醸して、高級な豆ブルーマウンテンに決して引けを取らないからである。

 昨日の日記に<当時ベトナム戦争に激しく抗議、反対していたオフだったが、アメリカが敗北してサイゴンを脱出する映像を見た時は、少しも嬉しさは沸いて来ないで、むしろ全身の力が抜けていくような虚しさに襲われたのを覚えている>と書いたが、少々書き足らないことがあったので補足しておく。
 南ベトナム政府があったサイゴンが陥落したのは1975年で、その年の四月にオフの長男が生まれているが、ちょうど長男誕生から一ヶ月も経っていない4月30日にサイゴン北ベトナム軍がサイゴンを占領して事実上南ベトナム政府は瓦解している。
 その時の映像がテレビで流れ、オフはそれを食い入るように見ていた。
 北ベトナム軍の戦車がサイゴン市内にストリートに姿を現し、戦車は大統領官邸に突入し、建物に北ベトナムの旗が掲げられ、事実上南ベトナム政府はその時点で崩壊した。
 その少し前に大統領官邸かアメリカ大使館だったか忘れたが、いずれかの建物の屋上から海上に待機していた航空母艦へ向けて最後のヘリコプターが飛び立つ映像があった。 人々を満載して飛び立とうとしている最後のヘリコプターに何とかしがみついてでも乗ろうとしているベトナム人アメリカ人が蹴り落としているシーンだった。 記憶はハッキリしていないが、蹴り落としていたのはヘリのドア付近に座っていたサングラスを掛けた身体の大きなアメリカ軍人だったような気がする。 一方けり落とされている人は一人だったか数人だったかハッキリしないが、とにかく身体の小さなアジア人であった。 おそらく最後まで残っていた南ベトナム政府の関係者だったのではないかと思うが・・・そのあまりにもリアルで非情なその光景を見ていて、オフをして全身の力が抜けていく虚しさを感じたのだった。 そのアメリカ人は、<最後の最後まで醜く卑しいイエローモンキィめ!死んでしまえ! 醜く卑しいお前達のためにわれわれは多大な財源と多数の命の犠牲を払ったにも関わらず、お前達が不甲斐無いためにわれわれもこうして撤退せざるを得なくなった!お前達は全員、北ベトナム兵になぶり殺されて当然だ!>と叫んでいるように聞こえた。 目の前で南ベトナムが瓦解していく事実よりも、あのベトナム人を蹴り落としている一人の臥体の大きなアメリカ軍人の姿にアメリカそのものの姿を見てしまったような空恐ろしさと虚しさを感じた訳である。
 これは後で知ったのだが、北ベトナム軍はアメリカ政府の要請により、サイゴンに在留するアメリカ人が完全に撤退を終えるまでサイゴン市内へ突入しないという、密約がなされたいたということだった。

 宮内勝典著『焼身』

 朝から日が差していた。 この夏としては珍しいのだが、日差しは続かずすぐ曇ってきてしまう。
 今日も終日山の家で過ごした。 たいたいは寝転がって本を読んでいるのだが、その内に厭きて来る。 起き上がって台所へ行き雑事をする。 昨日自宅の畑から採って来たナスビで塩漬を作る。
 我が家流のやり方は、鍋にお湯を沸かししばらく沸騰させてから冷ます。 その間にナスをちょっとだけヘタを切り容器に並べていき、まんべんなく振り塩をしておく。 冷ました水を容器に入れる。 その時焼ミョウバンも加える。 後は重石をして水が上がるのを待つ。 これでおしまい。
 午後からはやはり読書に厭きたので、畑から収穫した朝鮮ナンバをみじん切りにしてにんにくのみじんと共に油炒めをして、それに今回はたまたまイカのゲソがあったのでこれも細かく切って加えた。 
 さらに砂糖、味醂、味噌を加えナンバ味噌の味を調える。 この時期ピリピリと辛いナンバ味噌をご飯にのせて食うと、やたら食欲が増すのである。
 

 宮内勝典著の『焼身』を読む。 だいたい同世代のこの作家の作品を読むのは今回が初めて。
 どういう訳かこの作家の作品がこれまで図書館には置いてないのかあまり見かけなかった。
 オフが高校生の頃だった。 新聞やテレビなどでサイゴンベトナムの仏教僧が、政府に抗議してガソリンをかぶって焼身自殺をしたと報じられていたのを記憶している。
 その後アメリカのケネディ大統領がフランスに代わって南ベトナムのグエン政権に軍事的な肩入れを強化して、ベトナムでの戦争が泥沼化していった。 オフたちが大学の頃になると、学生を中心に世界的にベトナム戦争反対運動が盛り上がったが、ケネディの後を継いだジョンソン大統領は北ベトナムの都市という都市を大量の爆弾で爆撃し戦争はエスカレートする一方だった。 さらにアメリカはナパーム弾、枯れ葉剤、劣化ウラン弾などの新兵器を投入したりしたが、結局アメリカはベトナム戦争に敗退し南ベトナムを放棄して退去する。  当時ベトナム戦争に激しく抗議、反対していたオフだったが、アメリカが敗北してサイゴンを脱出する映像を見た時は、少しも嬉しさは沸いて来ないで、むしろ全身の力が抜けていくような虚しさに襲われたのを覚えている。

 四十年前ニューヨークのスラム街で暮らす不法滞在者だった作者が、たまたま公園のベンチで拾った見た新聞の報道写真・・・炎に包まれるベトナムの僧の焼身の新聞写真が、どういう訳か吹き上げる真っ赤な炎の色まで見えたことにはじまる。 そしてその四十年後ニューヨークの9・11の映像を見ながらその時の記憶が甦り、いまこそあの時の焼身の意味を知る必要があるとにわかに感じ、急遽ベトナムへ飛ぶことになる。 それまで確固たるモノと思われていた価値が象徴的に崩壊した時、信じるに足るものを求めてベトナムをルポタージュして歩く、その虚実の狭間のドキュメントがこの作品である。

 ユベール・マンガレリ著『しずかに流れるみどりの川』

 雨が降ったと毎日書いているような気がする。 昨夜も夜半過ぎ、激しく雨が降った。
 今日も夜に入って雨が降った。 日本はアジアモンスーンの帯の東の端にあることがあらためて感じさせられる。 このモンスーンが身の回りのあらゆる森羅万象を生み育て、日本人の感覚や思想を作り出しているのだと・・・思わないわけにはいかない。
 
 
 ユベール・マンガレリ著の『しずかに流れるみどりの川』を読んだ。
 作者はフランスの新鋭で、といってもスタートが遅くもう50歳近くだ。 それまでは主として児童文学作家として活躍してきていたらしい、本作品が本格的な作家デビュー作ということである。
 とにかく、驚いた。
 全編を通してまさに表題通りしずかに流れる川のように静謐な作品だが、後に残るものがとてつもなく大きい。 おそらくこの先の人生の場面場面でこの作品のことを、何度となく思い出すことがあるだろうと思われる、そんな作品である。 
 べつに事件らしい事件が起きるわけではない。 子供が草のトンネルの中を歩きながら思い続けること・・・前に住んでいた家の近くの川のことや、その川に架かる橋のことや、お金を儲けてその支流の持ち主になることなどなど。 それに息子とその父親との家の中での日常的な話が淡々と繰り返され、それらだけが話の流れをつくっている。
 この小説を読んでまず思い出したのは、昨年見たロシアの映画「父 帰る」という作品だった。
 この映画も父と子の問題を扱っていて印象深かったが、今回の小説は扱っている問題も父と男の子とそして子の成長だが、どちらかといえば子供の繊細な内面のほうへ踏み込んで書かれている。 父親の側からではなく、子供の側から見た父親の存在とその父親が支配する世界を書いている、その結果、子供にとって父親なるものとは何か、という問題をより深く掘り起こす結果に繫がっていっている。 昔からこころが洗われる珠玉の作品という言葉があるが、間違いなくこのような作品のことをいうのだろうと思う。 
 ついこの前に読んだドイツの新人ユーディツト・ヘルマン著の『夏の家 その後』もそうだったが、オフの今年の外国文学のベストに入るのは間違いないだろう。
   
 

 『ジュリエッタ荘の幽霊』

 どうやら昨夜の雨で一段落したみたいだが、すっきりとした夏空が戻らない。
 午後からはなんとなく空気が少し乾いてきて、これまでのねっとりとした暑さとは少し違ってきた。
 終日山の家で本を読んだりしていた。 先に買ったブックスタンドはますますお気に入りで、広間の板の間の上に寝転がって本を読んでいる。 夕方マロクンと散歩に出かける。 まだほんの少しだが葛の花や萩の花が咲きはじめている。 もうすぐ空も澄み渡るだろう、秋は近い。
 

 べアトリーチェ・ソリナス・ドンギ著の『ジュリエッタ荘の幽霊』を読んだ。
 作者はイタリアの女性で、これは少年少女向けの作品である。
 時代は第二次世界大戦の最中、場所は北イタリア、主人公の少女は母親の郷里の村へ疎開している。 疎開先の村で少女はたまたまある屋敷に隠されている秘密を知ることになり、その秘密を知ることから事件に巻き込まれていく。
 父親はドイツ軍の捕虜となり、遠くポーランドの収容所にいる。  村にはドイツ兵やファシスト達の車が走り、山岳地にはパルチザンが立てこもりドイツ軍に抵抗している。 その村には「のろわれた屋敷」と呼ばれる家があり、村の人の話では昔その屋敷で亡くなった少女の幽霊が出るという噂がある。
 主人公ははその屋敷の近くで夕暮れ時白い服を着た少女を見かける。
 
 今回なにげなく五冊の新刊書を借りてきたが、その中の三冊が少女や少年を主人公にした作品だった。 夏休みということもあり、新刊書は主として子ども向きの作品から選ばれていたのかもしれない。
 オフはこういう作品は嫌いでない。 大人向けのミステリーや殺人事件が次々に起きる探偵や刑事が活躍するものなどを読むよりこちらのほうがむしろ好きだ。 大人になってからも岩波少年少女文庫のアラン・ガーナー著の『ブリジンガメンの魔法の宝石』とか『ふくろう模様の皿』。 エリオット・ピアスの『トムは真夜中の庭で』とか『まぼろしの小さな犬』などを面白く読んだ思い出がある。